ビリヤード場のコーヒー

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あれはもう15年も前のこと。
私がコーヒーを好きになるきっかけは、一人の女性でした。
背伸びしたい中学生だった私は、一度兄に連れられてビリヤードを覚えて以来、毎週のように部活をサボっては一人ビリヤード場に通っていました。もともと持久力もなければ団体競技も得意でない私には、ビリヤードはすごく合っていたのです。ほかの友達が経験したこともない趣味、という小さな優越感も感じていたのだとも思います。
ほぼ毎日3時半まで学校があるのですが、木曜日だけは職員会議があるからと、2時半にはホームルームが終わることになっていました。それから5時まで部活動があるわけですが、私は毎週木曜日、ホームルームが終わるや否や、空のかばんを引っ掛けて、一目散に裏口から逃げ出していました。自転車通学が禁止されていましたが、木曜日だけは学校裏の林に自転車を隠し、猛スピードで家に帰宅。風のような速さで制服を着替えると、ビリヤード場にまた走り出します。

 

私が住んでいる街では、市の条例で、16歳未満の子供のみで、18時以降に遊技場へ出入りすることが禁止されていました。誰かが監視しているわけではないのですが、19時過ぎて家に帰ると家族もうるさいので、私もなんとなく18時を遊戯切り上げの目安にしていました。そこのビリヤード場は1時間500円、フリータイム1200円。やるなら数時間は遊びたいと思って、3時間はゆっくり遊べる木曜日を選んで通っていたわけです。

 

そこのビリヤード場では、フリータイムを利用するお客さんには、店員が入れたコーヒーを無料で提供していました。正直そのころコーヒーは苦くて得意ではありませんでした。だからいつも、砂糖とミルクをたっぷり入れて、苦味をだましながら飲んでいました。
けれど、プレイ中に目端に映る、コーヒーを淹れる女性店員の姿が、なんだかとてもかっこよかった。切れ長の目で髪は茶髪、タバコも吸うし、かわいらしさとは正反対の女性だったのだけれど、ビリヤード場の少し薄暗い雰囲気もあいまってか、伏せ目がちにコーヒーを淹れる姿がなぜかとても魅力的で、何度かコーヒーを頼んでいました。もちろん、中学生にとってのフリータイム料金1200円は財布にとても厳しいので、無料のコーヒーがありがたかったのもあります。
思えばその店員さんに恋をしていたのだと思います。それが私の初恋、とはいえそのころ私は恋がどんなものかも知らなかったのですが・・・。
自然とカウンターの見える台をいつも使うようになっていました。バックヤードまで覗けるその台を使っていると、その女性店員が自分で何種類かの豆を混ぜていることや、一回一回その都度クルクルと手で豆を挽いている様子が見えます。そして淹れたてのコーヒーをまず自分で味見し、うん、とうなずく彼女の顔は今も昨日のことのように思い出すことができます。そして彼女は自分のカップになみなみとコーヒーを注ぐと、バックヤードのいすに座り、手近にある本をいつものんびりと読んでいました。

 

ある日、毎週のように部活をサボる私を怪しみ友人が追いかけてきました。サボっている後ろめたさもあり素直に白状したところ、友人たちも一度ビリヤードをしてみたい、と。なんだか自分自身も認められたような気がして、みんなでいつものビリヤード場に向かいました。
初心者のみんなに撞き方を教えたのですが、テニス部だったからなのか、みんなやっぱり個人の競技が得意なんですね。初めてなのに、すぐに覚えてしまう。慣れてきたあたりで、みんなで一度ジュースを賭けて試合してみよう、ということになりました。みんなは小一時間みっちり練習した後ですが、私は教える側で、その日はろくに撞いていない。どうもうまく決まりません。ナインボールを始めたものの、ひとつもボールを落とせないまま、6番ボールまで落ちてしまいました。
そんな時、あの店員さんが、コーヒーを持ってきてくれました。「がんばって」と一声かけてくれ、俄然やる気が沸きました。私の番になり、目標の玉にしっかり狙いを定めると、その向こうで、こちらに「ファイト」と口だけ動かしている店員さんが見えます。
・・・情けない話、逆に緊張してしまい、手玉は変な回転をしながら見事に空を切りました。恥ずかしいやらなんやらでうつむいていると、店員さんがこちらに歩いてきます。放っといてほしい、そんな気持ちで目を合わせずにいると、私の肩に手をかけ、キューをつかみました。思わず顔が赤くなるのがわかりました。
「やっぱり。ちょっと貸してね。」
店員さんは私に優しくウインクすると、私のキューを持っていってしまいました。私はもちろん、友人たちも頭の中を「?」でいっぱいにしています。
友人が8番まで落としたところで、店員さんが戻ってきました。
「ごめんね。これで撞いてみてくれる?」
9番ボールを友人が落とせず、私の番に。角度のある配置で少し難しいのですが、ここまでひとつも落とせなかった私は、これを入れてもお姉さんにいいところ見せられたともいえないし、と気力なく撞きました。すると、手玉に触れたときの感覚が、今までとぜんぜん違いました。適度な感触だけが残り、ちからがスムーズにボールに移動していくような心地よさ。9番ボールは吸い込まれるように落ちていきました。
「え~!俺がほかの全部落としたのに、お前の勝ちかよ~!!」
友人たちから非難の声が聞こえ、首をすくめてしまっていると、再びコーヒー片手に店員さんがやってきました。
「最後まで勝敗がわからないのがナインボールの面白いところだよ。それに彼は、いつもはもっとバンバン落としちゃうんだよ。今日はウチの整備不足でキュー先のタップがいびつになっちゃってたから、いつものようにできなかっただけなんだよ。」
そういいながら私にコーヒーを手渡すと、再び「ちゃんと磨いてなくてごめんね。」と声をかけてくれました。私はすっかり嬉しくなって、友人たちに「お姉さんの言うとおり!まあおいしいコーヒーが来たからジュースはなしでいいよ。」なんて友人たちに軽口をたたいていました。

 

そのときからだとおもいます。私がコーヒーを好きになったのは。格好つけて砂糖もミルクも入れず、苦いコーヒーを飲んだのですが、そのときのコーヒーが、私の人生で一番おいしく感じたコーヒーだと思います。それから彼女の入れるコーヒーを、ブラックで飲むようになりました。

それ以来お姉さんへの恋心をすっかり自覚してしまった私は、彼女の目を見て話すことすらすっかり恥ずかしくなってしまい、入退店のときしか言葉を交わさなくなってしまいました。それでも、いつもバックヤードが見える台を陣取り、真剣なまなざしでコーヒーを淹れる彼女のことを眺めていました。
高校受験に無事合格し、合格祝いで両親に頼んだのは、ビリヤードのキューでした。5万円までの上限で買えるものと言ってもらい、うきうきしていつものお店へ。すっかり舞い上がった私は恥ずかしさもどこへやら、店に着くなりお姉さんに声をかけて、キューのカタログを見せてもらいます。そのころはビリヤードのキューってとてつもなく高いものだと思っていましたが、「5万円とはリッチだね。それだけあれば充分良いキューがケース付きで買えるよ。」お姉さんに言ってもらい、なんだかすごく嬉しくなりました。お姉さんのアドバイスを受けると、思った以上に私のことを見てくれていたようで(彼女を見るために陣取っていた台ですが、逆を言えば彼女からも良く見えていたわけです)、私のクセも考えてキューを選んでくれました。高校入学後も、毎週毎週、一日だけは部活をサボってビリヤードに通っていました。
しかししばらくすると、店でお姉さんを見かけることが少なくなりました。そのうち風のうわさで店をやめてしまったことも知りました。そういえば最後に見かけたときには、少しおなかが大きくなっていて、タバコも吸わなくなっていた気がします。
お姉さんがやめてからは、新しく、目の大きなかわいらしい女性が働き始めました。しかし彼女は買ってきたコーヒーの粉をコーヒーメーカーにセットして置いておくだけ。台もキューも滅多に手入れはされず、学校帰りの私が店に着くころには、すっかり煮詰まったどす黒いコーヒーが置いてあるだけになってしまいました。私も行く気が弱まってしまい、高校からはじめた体操部が楽しくなって、自然とその店には行かなくなりました。気づいたころには、思い出の店は閉店してしまいました。
あれから15年、初恋のお姉さんのコーヒーの味をもう一度飲みたいと、いろんな喫茶店に行ってみたり、コーヒーを豆で買っては、自分で混ぜて、挽いて、淹れて。何度も何度も、試しては試してを繰り返しましたが、いまだ再現できずにいます。いまではより自分好みの豆の割合も見つけ、それを毎日飲むようになりました。きっとあのコーヒーは、お姉さんへの私の想いも相まって、あのおいしさが生まれたのだろうと思います。

彼女も今頃は当時の私と同じくらいのお子さんがいて、かっこいいお母さんになっているんだろうなと、勝手に思っています。そしてなんとなく記憶にあるのが、自分の入れたコーヒーの出来に、うん、とうなずき読み始める本が、「カフェの始め方」のような本だったこと。いつかどこかであの味のコーヒーに出会えないかな、あの人と再会できないかなと、ひそかに思っていますが、今のところまだ出会えていません。会ってどうということもありませんし、カフェを始めているかも、本当に始めるつもりだったのかも知りません。彼女の名前すら知りませんし、15年も経っていたら、お互いのこともわからないでしょう。まして私は、店にやってくるただのお客さんの一人でしたから。
あのお姉さんには会えなくとも、私のように、大人ぶってコーヒーを飲みながらビリヤードにはまっているような子に、いつか会えたらおもしろいな。そんなことを思いながら、仕事の合間に、喫茶店やビリヤード場に、あのときお姉さんのアドバイスで買ったキューを背負っては、今ものんびり通っています。

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