私は駅チカのカフェに努めている。半年ぐらいになるだろうか。個人経営で寡黙なマスターが趣味が高じて仕事にしてしまったような、こじんまりとした喫茶店である。
昔ながらの少し重そうなドアを開くとチリンと心地よい音がし、店内にはゆったりとしたジャズが流れ、色調は明るい木目の床に合うような白い壁紙と、おしゃれなペンダントライトは窓際の席に、カウンターの上の天井にはダウンライトが明るくなりすぎない程度に並んでいる。
モダンな感じにまとめられ、それでいて懐古趣味をくすぐるような店内の雰囲気を、私は気に入っていた。
そんな隠れ家のようなカフェに、私が勤めだしたころから毎週に一度、一組のカップルが来るようになった。いつも彼女が先頭になって重めのドアに体を押し当てて体重をあずけるようにして入ってくる。
二十代前半ぐらいの男女のカップル。主導権は常に彼女が持ち、彼氏は少し困ったような笑顔をしながら彼女の話を聞いていた。
「コーヒーはブラックでしょ?特に、ドーナツにブラックコーヒーは最高だよ」と彼女。
それに対して彼氏はフフッと優しそうな相槌を打つように笑う。私は心の中で羨ましさを感じながら顔にでないように無関心を装いながら仕事をしていた。
会話は途切れ途切れながら、毎週金曜日、お互いの勤めが終わったころにやってくる二人の恋愛事情は、全く関係ない私にもおぼろげな輪郭を想像できるぐらいになっていた。
彼女はコーヒーが好きで、一緒に甘いケーキやクッキーを食べるのがいい。
彼女は会社で営業秘書のようなものをしていて、お局様には嫌われているらしい。
彼女には結婚願望はなく、ずっと仕事を続けていきたい。
彼と彼女の会社はカフェを挟んで人駅ずつ向う側にあり、ここは待ち合わせにちょうど良いこと。
彼は本が好きで、彼女はそれがつまらないらしい。
彼はコーヒーが好きなのかどうかはわからないが、彼女に合わせていつもブラックで飲んでいるようだった。
傍目に見ても二人は相思相愛だったが、彼氏が彼女にぞっこんで彼女の趣味に合わせているように感じられた。
私はこのバイトの時間を結構楽しんでいた。
金曜日に現れるカップルだけでなく、個性のある常連さん、印象的なお客さんの背景を空想しながら仕事をすることが趣味といえば悪趣味だろうか。
常にコーヒーの香り高い匂いに包まれ、雰囲気のある店内の一部になっていることが私には居心地よかったのだ。
そんなある日、急に降り出した雨に押されて飛び込むように入ってきた目新しいカップルに私は内心びっくりした。
三十代ほどの濃いめの暗い色合いをした細身のスーツを着こなした男性が、髪を濡らしながら店内を見渡し、後ろを振り向くことなく空いている窓際の席に真っすぐ向かった。
男性の少し後ろぴったりに見覚えのある女性が伏し目がちに入ってきた。
金曜日の彼女だ。
毎週のように彼氏を連立って現れるコーヒー好きの彼女が、頬を赤らめながら入ってきたのだ。
「何にする?」意思の強そうな男性の声が彼女に語りかける。答えを待つまでもなく続けて、
「あぁ、俺と一緒だったよね。じゃ、紅茶を二つで」
ミルクかレモンが必要かを聞くと、彼女は消え入りそうな声で「ミルクでお願いします」と言った。
私はマスターのいるカウンターに戻り、「紅茶二つ、ミルクとストレート」と書いた伝票を渡した。マスターは一瞥すると、彼女用に用意しかけていたコーヒーカップとソーサーをそっと戻した。
まるで別人のような彼女に、私は興味津々だったが、それを悟られないように業務を遂行しつつ会話が聞こえるギリギリの範囲にいるように努めた。自分でも悪趣味なのはわかっている。
どうやら男性と彼女は同じ会社の上司と部下といった関係であるらしい。以前に彼女は営業秘書だと言っていたことからして、この男性が直属の上司ということなのだろうと想像できた。
「雨なんて参ったね。止みそうもないか」と男性が笑いかけると、彼女は「はい」と微笑を浮かべながら答える。
「これからどうする?」と男性が聞くと、彼女は私には聞こえないほどの声でなにかを呟いた。男性は頷いて、「君は素敵だね」と満足そうに目を細めていた。
雨が小降りになったのを見計らって二人は会計を済ませ出て行った。店を出てから男性の方が彼女の肩に手を回し、小走りになりながら消えていった。
私の妄想は限りなく膨らむ。
無意識にマスターの方を向くと、マスターはこちらを見ていて目が合った。何も言わなかったが、「余計な詮索をしないように」と、釘を刺されたように感じた。
上司と秘書の不倫現場、そんな見出しが私の脳裏に決定事項のように浮かび上がったが、それよりも彼女の変貌ぶりが印象に強く残った。こんなにも相手によって態度が変わるものなのだろうか。
そんな事があった週の金曜日はドキドキしながら待ったが、いつものカップルはとうとう私の勤務時間には現れなかった。次の週にも表れなかった。
そして、三週間目の金曜日、いつものカップルが姿を見せる時刻より少し遅れて店のドアがチリンを音を鳴らせ開いた。
開いたドアの先にはいつものカップル、ではなくその彼氏だけが心なしか心細げに立っていた。
「いらっしゃいませ」と、私はいつも通りの声掛けをし、特に誘導することもなく彼が店内に入ってくるのを待った。
彼は後ろを振り向き、少しだけ駅の方に目をやってから、知った顔がないことを確かめると静かに店内に足を踏み入れ、空いている方の窓際の席に座った。
「おすすめをお願いします」彼はいつもの注文をする。
うちのカフェでは毎日マスターが気分でおすすめブレンドを用意している。詳しくはわからないが、晴れの日、雨の日、暖かい日、寒い日、暑い日など気候や季節で豆を選びブレンドしているそうだ。一度聞いてみたことがあるのだが、まったく気候や季節など関係なく、マスターが飲みたいと思った豆を選んでブレンドすることも結構あるらしい。
このカップルはマスターの「今日のおすすめ」が気に入っているらしく、同じ注文をするのが常であった。
「ブレンドコーヒーでございます。本日はブルーマウンテンをベースにトアルコ トラジャをブレンド、深めに焙煎したものを使用しております」
おすすめブレンドコーヒーを注文したお客様には、名刺サイズにカットされた無垢な用紙にマスターが説明をしたためたものを添える。味のある癖字がアクセントになった素敵なカードである。
「お待たせいたしました」私が無表情を装い、彼のテーブルにいい香りをさせたコーヒーカップを静かに置く。カードを添えて、サービスの砂糖菓子が入った小皿をソーサーに並べて置いた。
彼氏は私の方には目線を向けることなく、無言だったが小さく頭を傾げ礼を言ってくれた。
店内には私とマスターを除いて、もう一つの窓際の席に仕事帰りであろうビジネスマン二人が談笑しているだけで、あとはいつもの金曜日の彼だけが居た。BGMのジャズが静かに流れている。
彼氏は空を見つめて、窓の外を見やり、ため息をつく。そうして一口コーヒーをすする。いつも通りブラックのままだ。外から見た窓には、席に座って目線にあたる部分に目隠しがされていて、店内から見てもその部分は花の蔓や葉をモチーフにしたすりガラスになっていたため外の様子は座った彼の顔の高さのままでは見れない。それなのに彼はじっと窓の外を同じ姿勢のまま見つめていた。
静かな時間が流れ、ビジネスマンたちが帰り支度をし始める。伏せておかれていた伝票をスッと取り上げた方の男性先に席を立った。遅れをとった方の男性は苦笑いしながらあとに続く。私がレジの方に向かい会計の対応をしていると、ふと、彼のスマホの着信音が響いた。そんなに大きな音ではなかったが、無機質な電子音は石のように固まっていた彼を動かすのに十分であった。無言のまま表示画面を見やり、少しためらったような表情をする。彼は画面に指をすべらせて耳にスマホを近づけた。
会計を済ませレジを閉じ、ビジネスマンたちが外に出るのを確認してから、一呼吸置く。マスターの方を一瞥すると何食わぬ顔をして戸棚の整理をしていた。私はトレンチを片手にビジネスマンが使っていた席へ向かう。おのずと彼が居る席の隣になるので会話の断片が聞き取れた。「うん」、「うん」と、ただ短い返事を彼は繰り返している。なるべくゆっくりと、邪魔にならないように物音を出さないようにして片づけをしていく。表情はさすがに顔を上げて彼を覗き込まなければならないので窺うことはできない。
通話の相手は彼女だろうか。全然違うのかもしれない。ほぼ片付けも終わり、持っていたダスターでテーブルの隅々まで丁寧に拭く。もうやることがない。見切りをつけて私はトレンチに載せた空になったグラスやカップたちをカウンターまで運ぼうとした。彼の席の前を通り過ぎる時、ぽつりと彼が呟いた。
「きみ、コーヒー好きじゃなかったんだね」
思わず彼の方に視線をやってしまったが、彼は今はだれもいない彼女が座って居た席をずっと見つめたままだった。スマホはまだ耳に添えたままだ。私が見ていることにも気づいておらず、少し笑ったように見えた。
「僕に合わしてくれてたんだね。ありがとう」そう聞こえた。
私は通り過ぎて、振り返ることはできなかったけれど、彼はそう言って通話を終了した様子だった。
それからしばらくして彼は席を立ち、会計をして店を後にした。私は彼が残していった静寂と三分の一ほど残った冷めたコーヒーを、マスターに小突かれるまで窓際の席に放置したままぼんやりとしていた。
数日、数週間経ち、カップルが店を訪れないことが日常となることに、違和感を覚えなくなった頃、金曜日ではない平日の夕方に、彼一人がカフェに立ち寄ることが増えた。彼女と一緒の頃には無かった少し分厚い本がお供についてくるようになった。彼はリラックスした感じでいつものおすすめブレンドコーヒーを飲み、ゆったりと本を読んでいる。
私はずっとモヤモヤしていたが、最近彼の様子を見て思うことがある。ずっと彼が彼女の好みに合わせていたのだと思っていたが、逆だった。彼女は彼の趣味に合うように背伸びするように苦いコーヒーを甘いお菓子で紛らわせるように食べていたんだと気づいた。勝気でリードしないと気が済まないと性格なんだと思っていた彼女は、本当は無口で何を考えているかわかりずらい彼を振り向かせようと必死だったのかもしれない。
妙に納得がいった私は、すました顔でグラスを磨いていたマスターに向き直り、
「恋愛ってむずかしいですね」と、突拍子もなくマスターに告げると、フンッと鼻であしらわれた。
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