コーヒーの香り

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初めてアルバイトした喫茶店では、アルバイトにもコーヒーが振る舞われた。朝、まだ寒い空気の中で店を開け、モーニングを食べにくるお客さんを迎える。
近所の方々でも、それは休日のちょっとした楽しみであり、この喫茶店と言うよりもお洒落なカフェはちょっとしたサロンとも言える場所だ。

 
モーニングは分厚いトーストにオムレツ、サラダ、それに好みの飲み物がつく。コーヒーでも紅茶でも、フレッシュジュースでも、その日の気分で選べるのだ。奥さんと一緒に毎週休日に訪れる着物の男性は、何時もコーヒーを。コーヒーと言っても、炭焼きコーヒー、ブレンドコーヒー、アメリカンコーヒー、ウインナーコーヒー、アイスコーヒーと沢山ある。私がマスターから入れてもらったのは、ブレンドコーヒー。

 

この店の、いわゆる普通のコーヒーであるけれど、それは、濃くて、十六歳には少し苦い感じがした。炭焼きコーヒーを入れてもらった時には、焼き芋の香りがまず顔の前に漂って、味は、思ったよりも薄い感じがする。アメリカンコーヒーは、マスターが、ブレンドコーヒーを薄めて出しているのを、見た。
自分が、妻になって朝食を夫と食べるなんて、まだ想像もしない年頃だった。ウインナーコーヒーは、生クリームを乗せたコーヒーだ。シナモンスティックがついて、それで混ぜていただく。デザートのような、飲み物で、冷たい生クリームとコーヒーが溶けていく感じがとても滑らかで、シナモンスティックからは良い香りが立ち上る、ちょっと贅沢なカフェである。将来、恋人と、そんな贅沢なカフェを休日に味わって過ごせたら、と朝日が差し込む中で、一人考えたものだった。
カフェには紅茶もダージリン、オレンジペコー、ミルクティー、レモンティー、と色々あったけれど、あるとき、年配の女性が『チャイはある?』と聞かれた。メニューにないのを確かめて聞かれたのだから、私はマスターに『チャイは出来ますか?』と聞きに行った。できないよ、と言われるだろうと思って。しかし、『作るよ。』と気さくに声がかえってきたし、見ていると、カフェオレの時と同じく、紅茶を鍋に入れてミルクと煮ていた。ローカルな店はいい。なんでもできるのだ。お客さんだって、実はたまにしか来ない、ゆったりとした店だった。
マスターはコーヒーが好きなのだ。そうでなければカフェの中で、一日中来たり来なかったりする客を待ってじっとして居たりするわけがないだろう。マスターだってまだ三十歳にもなっていない男性だった。家族と子供がいて、奥さんは保育士さんとして働いている。実家でくらし、実家で建ててもらったカフェの中にじっと籠って毎日を過ごしている。
たまに奥さんがやって来た時には、風が舞い込むように空気がふわりと明るくなって、その風はカウンターから始まって店中を巡ると、マスターは外へ買い物へ出かけて行った。それは春風の様で、じっとしていられない空気を感じさせる。美味しいコーヒーに合う料理を考えさせて、マスターを買い物へ向かわせる。ここの料理は中々美味しい。田舎のカフェで、有りながら、美味しいパスタがそろっていて、海のパスタ、森のパスタ、たらこパスタ、ボロネーゼパスタ、と各種とも賄いで頂いたけれど、本当においしかった。ピラフだって美味しい。また、海のピラフ、森のピラフ、普通のピラフ、とあったけれどこれも美味しい。ビーフシチューは缶入りの物をつかっていて、おいしそうではあったけれど、アルバイトには振る舞われなかった。
実はこの時、カフェでバイトしながら、コーヒーの香りがあんなにあったのに、それがおいしかったとも、良い香りだったとも、記憶にない。
コーヒーの香りがなんとも香ばしくて、その立ち上って来る匂いにつられるようにカフェに入るようになったのは、もっと大人になってからだ。とても良い香り。でも、一口飲むと、立ち上っていた香りは半分くらいになって、味の方に関心がいってしまう。それは、どんなに美味しくても、もう、さっきみたいに香りを楽しむことができない、後戻りができない。
だから、一口飲む前に、何度も香りを吸い込んで、脳にああ、幸せの匂いだとちゃんとインプットしてから頂くようになったのは、もっともっと時間が経った今、人生も半分を超えかけた頃。
恋に似ている。告白したり、付き合ったりする前の、その人がとても好きで、もしくは好きかどうかも分からないけれど、とても気になる存在で、だんだん、脳がその人の事を意識し始める頃の感覚。少しずつ、好きになって、近づいて、楽しくすごして、付き合い始めて、とても幸せな時間がやってくる。そして、それが覚めて、行ってしまう。そういうとても良い香り、良い予感はカフェの良い香りに少し似ている。少しも後にもどれない。だから、その香り、味わいをゆっくり堪能したいと欲望は深まるばかりだ。
きっとマスターもコーヒーに恋をして、カフェを経営しているけれど、その味わいに飽きる前に、新しいコーヒーをメニューに入れていくだと思う。炭焼きコーヒーの焼き芋の香りは、香りの中でも最高に香ばしくて、大人になった今でも忘れられないものになっている。
柔らかなカフェ日差しの中で、コーヒーの香りとマスターと奥さん、そしてお客さんの夫婦。狂おしい恋とは次元の異なる、優しい、滑らかな感情が漂っていた。
若かりし頃、若い男たちは、「女性はコーヒーよりも紅茶を飲んだ方が可愛らしく思える。」などとぬかしておるのを知っていた。だから、そのころから、男の前ではほとんどブラックのコーヒーを頼む。砂糖もミルクも加えない。空いてが引いていく感覚があれば、こっちのものだ。そんな事で引くような男はこちらから願い下げだ。甘くない女でありたかったし、甘くない男でないと、格好悪い、と考えていた。本当は、私はとても甘党で、チョコレートやケーキが大好きだから、飲み物にまで砂糖を入れていると、カロリーオーバーになってしまう、という理由が秘密であるのだけれど、偉そうに、いつもブラックをのんでいた。要するに、甘い物大好きなで意地っ張りな女だったのであろう。肩肘はって生きていた。甘いコーヒー等を飲む輩はへなちょこだと考えていた。
けれど、だんだん年をとれば、やっぱり甘いコーヒーが好きだ、と思えてくる。男だって、肩肘張った男でなくて、とろけるように甘い男だっていいじゃないか、と思えてくる。
今、私は合い変わらず、ブラックを飲み、甘い物を食べる日々をつづけながら、ブラックを飲む優しい優しい男と一緒に過ごしている。その男は、肩肘はってブラックを飲んでいるのではなく、コーヒーの味が好きなのだ、と言っていた。
彼の実家へ行くと、いらっしゃい、と母上がコーヒーを豆から挽いて入れてくださる。何とも幸せな香りが立ち上って、少しずつ、コーヒーがつくられていく。飲み終わってしまうまでの時間は、ベランダからの日差しの中で過ぎて行き、何もなくても、それだけで満たされていく幸せがある。
あの時、会いたくて会いたくて、夜中に走ってマンションまでかけて行った頃には、こんなにゆったりと物事を楽しむことなんてできなかった。コーヒーの香りに気づく頃、盲目ではなくなる、恋の終わりなのだろうか。私はもう恋をしていないのであろうか。そうだ。
でも、大好きなのだ。恋が狂おしい想いだとは限らない。ゆったりと構えられる幸せな恋だってあるはずだ。
今、私たちの朝はカフェオレで始まる。カルシウムもいとれるし、胃にも優しいのだけれど、コーヒーよりも、柔らかい感覚が舌を通って喉を滑り落ちていく。だんだん甘さに近づいている。甘い幸せ。ああ、砂糖を入れるともっと、脳に至福の感覚が届くのであろう。
でも、砂糖は、まだ入れない。美味しさを使い果たしては、後戻りできなくなってはこまるから。毎日美味しいね、幸せだね、と一緒に朝食を過ごせる時間を少しでも長引かせたい。だって、糖尿病は万病のもとだっていうから。
祖母も、伯母も、両親だって、みんな、糖尿病なのだ。最後に、もう寿命に近づいた頃になれば、私だって、コーヒーに大量の砂糖を投入して、甘い甘い人生を味わうのかもしれない。それとも、それくらい甘いコーヒーが無ければつり合いがとれない程、辛い現実が待って居れば、砂糖の方をとるだろう。
ある意味、恋は甘いから、今はブラックでも良いのかもしれない。
焼き立てのパンの香り、コーヒーの香り、どちらも至福の香りではあるけれど、一度口にすればその幸せには少しも近づくことはできない。香りの想像を超える事はできないのだから。恋の香りもそうだと言った。でもね、沢山恋をして、別れて、また出会って、沢山の人に出会いながら生きていくうちに、一緒にいいるとだんだんと幸せになって、少しも別れたりしようと思えなくなる人がいる。コーヒーの香りを超える人がいる。それは、滅多にない、幸せかもしれない。見かけよりもおいしい事だってあるのだ。それとも、その中身が日に日に変化して、私を飽きないように、惚れさせて、楽しみへ導いているのだろうか。
マスターのカフェにもそろそろ、そんなコーヒーがメニューに載っているかもしれない。だってあれからもう二十年になる。
久しぶりに、田舎へ帰り、昔アルバイトをしていたカフェを探した。
しかし、そこに店はなくなっていて、新しくマンションが建っていた。資産家だったから、喫茶店経営を辞めて、マンションのオーナーになったのだ。
その土地に、かつての香りが漂っていればもっといいのに、と少し残念に思った。出来れば、マンションの一階にカフェがあって、毎日そこからコーヒーの幸せあ香りが立ち上ってきたら、そこを通る度、人は幸せを感じるだろうな、と思う。香りと同じくらいに漂う幸せをつかむのが恋なのだと私は思う。

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