コーヒーと、君と

大好きなコーヒーの香り。
苦いような、酸っぱいような、古本みたいな、都会のような、旅行のような、明け方のような、夜のような香り。
コーヒーの香りはいつも、誰かと過ごす楽しい時間の香りで、それは母だったり親友だったり。そして、なにより、心の奥にしまい込んだ大切な彼との時間だったりする。

 

彼と出会ったのは、私がフリーターとしてバイトを掛け持ちする日々だった頃のこと。私よりも半年ほど後に入って来た彼は、他の女の子たちがちょっとテンションが上がってしまうくらいの、容姿の整った男の子だった。年齢は私よりも少し下。就職浪人で公務員を目指しているという。年上にしか興味のない私は最初、可愛い男の子が入ったな、程度の印象だった。

 

そこのバイトは男女ともに仲が良く、彼もすぐに打ち解けることができた。
休憩中、彼はよくコーヒーを飲んでいた。コンビニで買ったコーヒーなのに、彼が飲むと何だかサマになっていて、それをからかったりした。私も同じコーヒーをいつも飲んでいたから、余計に笑えた。
シフトが同じ日は、二人で一緒に帰ることもあった。読書家の彼とは、本の話で盛り上がる事もあり、メールアドレスも交換して、たまに、ご飯を食べて帰る日も増えて来た。その時も、私たちはお金もたいしてないくせに、必ずシメにコーヒーを注文していた。
彼は中身こそとても素敵な人だった。
男女問わず誰にでも優しく、真面目で、何事にも一生懸命で、とても、穏やか。とても読書家でそして、カフェ巡りが趣味だった。
仲良くなったのに、その事を知ったのは少し時間が経ってからで、よく考えて見たら、彼は自分の話をするよりも、私のことばかり聞いて来ていた。
「コーヒー飲みに行きませんか。」
ある日のバイトの帰り、彼はそう言って、最近見つけたという小さなカフェに連れて行ってくれた。!コンクリートが丸見えの、いわゆる打ちっ放しの内装。木の枠で飾られた窓。アンティーク調の、ほんとにギシギシ鳴る繊細でお洒落な椅子。都会の片隅にある、雑誌にコッソリ載るようなカフェ。
それまでほぼ、チェーン店しか入った事の無かった私には新鮮で、とても印象的だった。どのカフェでもコーヒーの香りに満ちているのは当たり前だけど、そのカフェの香りは、彼の香りにピッタリだった。
「勇気を貰いたくて。」
彼はそう行って慣れないブラックを頼んでいた。何のことかわからなかった私は、笑って、甘いカフェ・オ・レ。
その帰り道、カフェの近くの公園で、私は彼に好きだと告白された。

 

彼とのデートはいつも大きな本屋さんか、カフェが中心だった。
彼の知っているカフェを行き尽くした後は、二人で雑誌や本、ネットで検索して色んなカフェに出向いた。だけど、結局落ち着く店はいつもの決まっている。約束なんてしてなくても、カフェで何となく本を読んで待ち合わせる、なんて事もあった。初めて彼の部屋へお邪魔した時も、コーヒーの香りがしていた。台所に朝飲んだインスタントのドリップコーヒーがそのまま捨ててあっただけの事で、彼は恥ずかしそうなしていたけれど、やっぱり彼の香りはコーヒーだな、とその時思った。
ある時彼は、「コーヒーの淹れ方」なる本を買って来た。それまでは、家の中では適当にインスタントコーヒーで済ませていた私たちだったけれど、その本を読んで手間暇かけてドリップしたりなんかして、どちらが美味しいコーヒーを淹れることができるか!?と言うのが、一時、二人の中で大流行した。
勝負は結局、どっちが淹れても変わらなかったし、しばらくしてブームは去ってしまったけれど、コーヒー専用のお洒落なお揃いのコーヒーカップだけは、のちに、二人で暮らし始めた時もいつも二つ並んで飾ってあった。

 

彼は公務員試験に失敗した。
もう一年だけ頑張りたいと言い、予備校に通い始めた。それから、予備校近くのチェーン店のカフェが私たちの待ち合わせ場所になった。
予備校に行く時、私は、再びあの本を引っ張り出してきて、何回かに一度、ドリップしたコーヒーを持たせてあげたりもした。ちょっと奥さんになった気分で楽しかったし、それはそれで幸せだった。
だけど、残念なことに彼はその年も試験に失敗した。夢を諦めた彼は、深く落ち込むこともなく、「そろそろちゃんと働かなくちゃ。」と、バイトを続けながら就職活動を始めた。
時期が悪く、なかなか就職先が決まらなかったけれど、真面目で、何にでも一生懸命な彼は何とかめでたく、就職先を見つけることができた。
小さな、いわゆるベンチャー企業で、朝早く、夜は遅いという日々が続いた。
社長も同僚もいい人たちに囲まれて、彼も徐々に素敵な社会人になっていった。
私もまた、その頃、バイトから派遣社員へと仕事を変えた。
正社員も考えたが、彼との生活を大切にしたかったし、彼も、無理して働くことないよと意味深な事を言ってくれていた。
料理を作り、彼のためにコーヒーを淹れるのが私の幸せになっていた。カフェで飲むコーヒーも良いけど、お酒の飲めない彼が帰って来てから淹れて飲む、深夜のコーヒーはとっても幸せだった。
お風呂から上がると立ちこめている、コーヒーの残り香の中、私たちは一緒に眠った。
付き合って6年。
一人の男の人とこんなに長続きしたのは初めてだった。
彼も正社員として落ち着いてきている。
彼の奥さんになりたい…!
誕生日が来るたび、記念日がくるたび、イベントがあるたび、私は期待していた。
生まれて初めて私は結婚を強く意識するようになっていたのだ。
だけど、それに反して、何度も何度も肩透かしを食らっていたのもまた、事実だった。

 

しばらくして、急に、私の中で何かが変わってしまった。
何があった、と言うわけではない。
ただ、結婚願望が薄れてしまった。
そうなると、これまでの彼への気持ちも、薄れてしまうような感覚になった。
これじゃいけない。きっと、倦怠期だ。
今まで一度も感じなかった倦怠期だ。
すぐに元に戻る。
私はそう自分に言い聞かせた。
だから、そんな気持ちになっても、変わらず二人でコーヒーを飲んだ。
だけど、夜中に起きてコーヒーを淹れることは無くなった。

ある時、派遣先から声をかけられた。
正社員になりませんか?
私はその時なぜか、「はい」と答えてしまった。
彼は私のその決断に喜んでくれた。
「おめでとう!」と。
でも、私はその彼の笑顔が腹立たしく感じた。
どうして?一緒にいる時間が減っちゃうかもしれないよ?ご飯だって作れなくなっちゃうよ?
口に出していたら何か変わったのかもしれない。だけど、喧嘩するのも違う気がして、私は言葉を飲み込んだ。

正社員になって、私もこれまで以上に沢山の人と関わる機会が増えた。
中でも、仕事のできる年上の先輩と親しくなった。先輩はよく私をランチに誘ってくれた。そして、彼がいる事を知った上で、私が好きだと言った。結婚を前提で付き合いたいと言われた。
先輩は眠くなるから本はあまり読まない人間だった。コーヒーは缶コーヒー派で、好きで飲むと言うよりは、何となく惰性で飲むタイプの人だった。お洒落なカフェも知らないし、カフェ巡りなんて面倒な事はしない人間だった。
彼とは全くの正反対。
だからこそ、私は先輩を選んだ。
彼への当てつけもあったのかもしれない。

私は、彼に別れを告げた。

彼は気づいていたようだった。
私の気持ちが離れていることを。
私の淹れるコーヒーの味が変わってた、なんてドラマティックなことはない。ずっと一緒に居たからこそ、気づいただけだ。そして私も、気づいてしまった。彼が私に内緒で、婚約指輪を選んでいたことを。
最低だと思った。
自分自身も。タイミングも。
だけど、もともと気が強い私は、そこで引き返すことはなかった。本当は引き返したかったけど、勇気がなかった。彼は、私の言葉を待っているようだった。本当は引き止めて欲しかった。だけど、彼は引き止めてくれなかった。
それが、彼の優しさであり、愚かさだったのだと、今ならわかる。
最後にウチを出る時、私は「それじゃあね!」と笑ってみせた。まるで、ちょっと出かけてくる!と言うように。そんなわたしを、彼はただ真っ直ぐ私を見て、「うん。」とだけ答えた。
コーヒーの香りで溢れた、私たちの部屋を一度も振り返らなかった。

私の大切な6年。
コーヒーを飲むたびに思い出す、彼との時間。幸せと未来を感じた、あの香り。今は、思い出す度に、胸がチクチクと苦しくなってしまう。
そんな自分が嫌で、「コーヒーだけに、ほろ苦い思い出」だなんて強がってみせたりもする。
あれから私は、コーヒーにこだわりが強くなった。チェーン店も嫌いじゃ無いが、小さなカフェを見かけたら、思い切って一人で入るようになった。豆専門店で豆を買ってみたりするようになった。何か頑張ろうとする時、ブラックコーヒーを飲むようになった。
私は何も変わっていない。未来は少し、変わってしまったけれど。

あの職場の先輩が、私の今の夫だ。
夫とは、本の話で盛り上がることもなければ、二人でカフェ巡りなんてしない。夫のために、私はコーヒーを淹れることも無い。お揃いのコーヒーカップすら、私たちには必要ない。
別に仲が悪いわけじゃない。ただ、私たちの間には、コーヒーは、ない。

今、私には一歳の娘がいる。
(もちろん、夫の子どもだ。)
現在はまだ授乳中で、コーヒーはディカフェしか飲むことが出来ないが、それでも十分、香りを楽しむ事はできる。
娘が出来てから、少しだけ、胸のチクチクが和らぐようになってきた。それは、今が幸せだからだと思う。
娘が起きる前の一杯。
娘が昼寝をしている時の一杯。
そして、娘が寝た後の一杯。
私は娘のことを考えて、コーヒーを飲んでいる。
ご飯は何にしよう、今日はどこへ行こう。
娘がもう少し大きくなったら、一緒にカフェ巡りをしよう。最初はホットミルクから始めて、次はカフェ・オ・レ、そしてブラックに挑戦だ。受験生になったら、夜中に苦いコーヒーで応援してあげる。そしていつか、娘にも一緒にコーヒーを飲んでくれる素敵な彼氏ができたら、私が美味しいコーヒーの淹れ方を伝授するんだ。
きっと、彼は虜になるはず。

私は、コーヒーの香りが大好きだ。
これからも、きっと、嫌いになる事はないだろう。

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