変わってしまう毎日が、少しでも変わらずにいられるように

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「先輩、コーヒー入れましたよ」
「おう、サンキュ」

 机の上に、一杯のコーヒーが置かれる。俺は持っていたペンを離して、それを口に運んだ。ほどよい苦味が口の中に広がる。温かな液体が、身も心も溶かしてくれる。
決して高くない、部費が余ったから買っただけの中古のコーヒーマシンなのに、何故彼女が入れるとこうも美味しいのだろう。

「このコーヒー、うまいな」
「当たり前です」

そう言って、彼女は俺を見ないまま、窓際の席に腰を下ろした。古びたパイプイスが軋む音。鞄から本を取り出して、静かに読み始める。
まったく、可愛げのない後輩だ――俺は、目の前の原稿用紙に向き直った。
彼女との出会いは、高校二年生の春だった。数少ない文芸部の部員だった先輩たちが卒業してしまい、はてどうしようかと途方に暮れていた時、彼女が現れた。
「あの、入部希望なんですけど」
文芸部とは、詩なり、論評なり、小説なり、何かしらを執筆する部活動だ。俺も下手なりに小説を書いていた。だから当然、彼女も興味があると思い尋ねると、
「本は好きですけど書くのは得意じゃありません」
まるで俺が間違っていたと思うくらい平然と言われたので、俺も「そう」としか返せなかった。いつの間にか彼女は、文芸部の部員になっていた。
「……先輩」

俺は原稿用紙から顔を上げた。窓から見える紅葉、その隙間から漏れる光に照らされながら、後輩はこちらを見ていた。

「小説、読み終わりました」
「おう。……それで?」
「わたし、他に読むものを持ってきていません」

後輩は口数が少なく、それでいてあまり感情を露にしない性格だ。いつも冷静で、話し方にも起伏が少ない。ほぼ毎日顔を合わせる俺ですら、笑ったところを数えるほどしか見ていなかった。
黒髪のショートカットを揺らしながら、後輩はやはり無表情で俺に尋ねる。

「何か持っていますか?」

言われて、俺は自分の鞄を漁った。教科書に挟まれた一冊の文庫本を取り出すと、彼女はわずかに眉を曲げた。

「それはもう読んだことがあります。オチが肩透かしでこれといった魅力もない、凡作の中の凡作でした」
「俺、まだ読み途中なんだけど」
「なら他の本読んだ方がいいですよ。面白くないですから」

血も涙もない後輩だった。俺は本を鞄にしまう。

「でも、他には持ってきてないぜ」

部室を見回す。文芸部なだけあって、本の種類は豊富だった。埃の被った本棚には、所狭しと本が並べられている。部が発足した当初に集められたもの、過去の先輩たちが置いていったもの、そして俺たちが持ってきたもの。歴史を感じるとは言わないまでも、その種類は様々だ。

「部室にある本はほとんど読み終えてしまいました。なので、それにします」
「それ?」
「今、先輩の手元にあるものです」

後輩が指したのは、俺が執筆途中の小説だった。原稿用紙には、お世辞にも上手いとはいえない文字が並んでいる。

「……これ、まだ途中だぞ」
「この前半分くらいまでできたって言ってたじゃないですか。見せてください」

俺は原稿用紙を守るように体で覆った。

「やだ。お前遠慮なしに批判するんだもん」

さっき見せた小説がいい例だ。

「先輩、名作は他人の批判があって生まれるんですよ」
「お前のはとくにひどいんだよ。最初に見せた時なんか『すごいこんなつまらない小説初めて読みました。ある意味才能ありますよ、わたしなら恥ずかしくて死にますけど』とか言ったじゃねえか。俺三日くらい立ち直れなかったからな」
「あれはわたしが入部してすぐの時でしょう。先輩もあれから成長したじゃないですか。幼虫が青虫になるくらいには」
「まださなぎにすらなれてねえのか……」

まるで譲る気配を見せないので、結局俺は原稿用紙を渡してしまった。
俺がこいつに勝てる日なんてこないと思う。年齢も学年も、一個上のはずなんだけどなあ……。

「恋愛小説、ですか」
「まあな」
「先輩、小説書けるほど恋愛したことありましたっけ?」
「余計なお世話だ!」

というかお前だって似たようなもんだろう。いつもこの部室にいるくせに――

小説に目を通す後輩の顔を、ぼおっと眺める。そう、不思議なんだ。後輩は贔屓目なしに整った顔立ちをしている。目も鼻もくっきりしていて、そこらの学生よりよっぽど美人だ。気の強さが顔に出てはいるけれど……それにしたって、こんな何もない場所で油を売っているような人間じゃない。

放課後になると、この部室に来てコーヒーを入れ始める。そのコーヒーを飲みながら俺は小説を書いて、後輩は本を読み始める。周りの活気ある生徒に比べたら、驚くような違いだろう。

「…………」

ふと後輩の向こう、窓の外に目がいった。この紅葉も、もう間もなく終わりを告げる。葉が散って、枝が枯れて……冬がくる。
何故後輩は、この部活に入ってくれたのだろう。何故いつも、一緒にいてくれるのだろう。そして――俺が卒業したら、どうするのだろう。

「読み終わりました」

後輩が顔を上げる。俺も視線を戻した。

「読むの早くないか?」
「元々そんなに枚数ないじゃないですか。ちゃんと読みましたよ」
「……それで、感想は?」

おそるおそる聞いてみる。すると後輩は、先ほど俺が見ていた景色に目をやり、

「この小説って、いつ完成するんですか?」

そんな質問をしてきた。俺は戸惑いつつも、考えてから答えを返す。

「遅くても、卒業までには完成させるつもりだけど」
「そうですか……」

後輩は、不意にこちらを向いた。

「約束ですよ」
「え?」
「卒業までに、わたしにこの小説読ませてください」

大きくて、真っ直ぐとした瞳。吸い込まれそうになるそれに、俺は再び動揺したけれど、なんとか頷き返した。すると後輩はふっと息を吐いて、

「それまで感想は言わないでおきます。ここで挫折されても困りますしね」
「挫折するほどの内容なのか……」
「さ、それじゃ先輩は執筆を続けてください。わたしは図書室で本を借りてきますから」

最初からそうしろよと思い、もしかしたら俺の小説を読むための方便だったのかとも思い――考えているうちに後輩は扉を出ようとして「そういえば」と振り返った。

「コーヒー、もう一杯入れましょうか?」

いつの間にかカップは空になっていた。俺は頷いた。
あっという間に春が来た。春というのは始まりの季節でもあり――また、別れの季節でもある。
卒業式は川に草舟を流したようにすうっと過ぎ去っていき、涙を流す生徒や別れを惜しむ生徒の間を縫って、俺は部室に向かった。最後に見ておきたかったのだ。

「……誰もいない、か」

扉を開けた俺は、やや落胆している自分に気がついて、小さく笑ってしまう。一体何を期待していたんだか。
俺はいつもの席に座り、部室の中を眺めた。すっかり見慣れた、小さな部屋。壁には、以前先輩たちと彫った落書き。床には、誤って墨汁を垂らした跡。本棚には、俺と後輩が置いていった本が、隣り合わせで並んでいる。

「……隣り合わせ、ね」

続いて窓の外を眺めた。以前紅葉が見えていた外は、すっかり桜の景色に変わっている。桜か。これを見ながら、コーヒーでも飲めたらな。
……ああ。そういえば俺は、もうあのコーヒーを飲むこともないのか。

「そう考えると、何だか……」
「……何だか、なんですか?」

俺は驚いて振り向く。そこには、後輩の姿があった。

「な……」
「どうしたんですか先輩。まさに鳩が豆鉄砲くらったような顔ですけど」
「おまえ……何で」
「三年生の教室を探してもいなかったので、ここかと思ったんですよ」

俺を探していた――!?
つい浮かれそうになるのを慌てて抑える。探すって、そりゃ当然じゃないか。こんなんでも一応先輩なんだし。別れの挨拶くらい、するだろ普通。

「コーヒー、入れましょうか?」

頷くと、後輩はいつものように作り始めた。マシンから注いだカップに、砂糖とミルクを適量足していく。

「お待たせしました」

口にすると、やはり抜群に美味しかった。

「……お前ってさ、将来コーヒー屋になれるんじゃないの」
「なに馬鹿なこと言ってるんですか」

結構本気だったのだが、後輩は呆れたように背を向けた。

「……先輩だけのコーヒー屋さんじゃ、すぐに潰れちゃいますよ」
「え?」
「それよりも」

振り向いて、机に手を乗せる。

「作品、完成したんですか?」

その問いに、しかし俺は首を横に振った。

「いや……。朝ぎりぎりまでやってたんだけどさ……」
「あとどのくらいですか?」
「もう二、三ページなんだけど」
「そうですか」

てっきり落胆、いや侮蔑の瞳を向けられると思ったが、そんなことはなく、後輩はそのままいつもの席へとついた。窓際の席。

「……ほら先輩、なにぼさっとしてるんですか」
「え?」
「まだ完成してないんでしょう。早く書いてください」

俺は驚いて見つめ返す。

「完成してないって……今、ここで書くのか?」
「当たり前です。……約束、したでしょう?」

後輩は拗ねたように言った。約束のことは、もちろん覚えていた。だからこそ俺も申し訳なかったのだ。でも、それにしても、後輩がこんな表情を見せるなんて意外だった。
俺はすぐに紙とペンを取り出して、原稿用紙と向き合った。構想はもう浮かんである。あとは言葉と言葉を、文字と文字を、イメージ通りに繋げていくだけだ。
ペンを動かしながら、俺はあることを思い出していた。
『試しに付き合ってみないか。小説の参考にさ』

特に何があったわけでもなかった。単なる日常の、単なるワンシーンだ。俺は何を思ったか、そんなことを口にしていた。恋愛小説で行き詰っていたからかもしれない。いや、青春からほど遠い生活を送っている後輩のことを思ってかもしれない。
どちらも違うな。
我ながら格好悪い人間だと思う。自分の大好きな小説を逃げ道に使ってまで、卑怯な告白をしてしまった。俺はいつから、彼女に惚れていたんだろう。
コーヒーを注いでくれる彼女。俺の小説を読んでくれる彼女。変わらない瞳で、いつも傍にいてくれる彼女。気持ちがふっと、こぼれてしまったのだ。
しかしその行動は、やはり失敗だった。後輩は大きく目を見開いた後、読んでいた文庫本を閉じて、席を立ち、足早に部室を去ってしまった。俺は目の前の現実が信じられずに、しばらく呆然としていた。
後輩は次の日も、その次の日も来なかった。多分、二度と来ることはないだろうと思った。後悔の念は日に日に強まりつつも、しかしどうすることもできなかった。何をしていいのか、分からなかった。
そうして三日が過ぎたある日、何食わぬ顔で後輩は戻ってきた。普通に、毎日通っていますよと言わんばかりの表情で。そして以前と同じようにコーヒーを注ぎ、窓際で本を読み出すのだ。
まるで目に見えない地雷を抱えるように、俺たちはその話題に触れることはなかった。
「できたぞ」

完成した小説を、後輩の下に持っていく。彼女は頷いて、静かに読み始めた。俺はそんな彼女を眺める。時折耳に入る時計の音だけが、時間の経過を伝えていた。
……ああ、ずっとこのままだったらいいのに。
すっかり冷めたコーヒーを口にしていると、後輩が顔を上げた。読み終えたらしい。

「先輩」
「おう。……どうだった?」

後輩は何故か、胸の綻びを直すかのように深呼吸をして、そして俺を見た。真っ直ぐな瞳。不覚にもどきりとしてしまう。緊張が高まる。動悸が激しくなっていく。

「あの、先輩……っ」

後輩が、すっと息を吸い込む。

「相変わらずご都合主義でありがちな展開のオンパレードで主人公に感情移入できないしヒロインが心変わりするのも早すぎるしというか全体的に痛々甘々のある意味では悲しい小説でした」

ゴーン、と頭のどこかで鐘が鳴る。

「……さようでございますか」

ショックな一方で、俺は胸の奥がくすぐったく感じた。相変わらずの姿、入部した時から変わらない後輩の姿に、何だか安心してしまう。
まったくもって、手厳しいやつだ。

「……ただ」
「ただ?」

まだ何かあるのだろうか。

「今までの先輩の中では……まあ、一番面白くて、やっぱりわたし好みでした」
「…………」

珍しい褒め言葉に、思わず面食らってしまう。最後のリップサービスだろうか。
それにしても、やっぱりとはどういう意味だろう。そんなことを言われたのは初めてな気がする。

「ねえ、先輩。わたしが初めて感想を言ったの――入部してからじゃないんですよ」

後輩は立ち上がって、窓枠に腰を乗せた。風になびく髪を、片手で押さえる。

「その前……わたしがまだ中学生の頃。ここの文化祭に来て、文芸部の作品を読んだんです。そこで、初めて先輩の作品を読みました。それで……」

感想のコーナーで猛烈に批判しました、と後輩は微笑む。頭の中に苦い記憶が浮かんだ。

「……あれ、お前だったのかよ。軽く三日は凹んだぞ」
「ふふ。それでもやっぱり――やっぱりあれも、わたし好みだったんです」

やっぱり、か。
二年生の春が最初の出会いと思っていたけれど、どうやら俺たちは、その前から作品を通じて出会っていたらしい。
同時に、何故後輩がこんな話をするのかも、何となく分かってきた。きっと彼女も勘付いていたのだろう。俺が疑問を持っていることに。
何故ここに入部してくれたのか。何故いつも一緒にいてくれるのか。

「先輩の作品は、そりゃとても全員を納得させられる出来じゃないですけど……少なくともわたしは、先輩の作品のファンでしたよ」
「……そりゃまた、やっかいなファンがいたもんだ」
「先輩、ここは素直に喜ぶところです」

ちょっとだけ頬を膨らます後輩を見て、笑ってしまうのと同時に、不思議な気持ちになった。なんというか、ここまで素直に感情を出す彼女は、初めてだったからだ。

「――先輩、わたしに告白をしたことありましたよね」

何気なく言われた言葉に、俺は心臓が掴まれたような感覚に陥る。

「告白というか、告白モドキというか。そんな時が、ありましたよね」

ずっと触れなかった話題。勇気がなくて、手を伸ばせずにいた問題。

「……ああ、あったな。それでお前は、三日間くらい来なくなった」
「わたしはね、この場所が好きなんです」

窓枠から離れて、後輩は壁に沿ってゆっくり歩いていく。小さな細い指が、古い本棚をなぞっていく。

「わたしがコーヒーを入れて、先輩がそれを飲んで。先輩が小説を書いて、わたしがそれを読んで。……そんな空間がたまらなく好きでした。絶対に失いたくない、かけがえのない時間でした。周りの子たちに言ったら笑われてしまうかもしれないけど、でもそれでもよかったんです。だってこの大切さは、きっとわたしたちにしか分からないから」
「…………」
「だから先輩に言われたとき、逃げてしまったんです。この幸せな空間が、幸せな時間が、壊されてしまうと思って。なくなってしまうと思って」

たとえば誰かに告白をして、ふられたとしよう。その後に友達でいようと言われても、二人の関係が変わらない保障はない。いやきっと、変わっていないように見えて、そこにははっきりと違う何かがあるのだ。何かが挟まって、取り出せなくなっているのだ。

「でも違ったんです」

後輩はこちらを振り向いた。何かを決心したような瞳で、何かから決別したような顔つきで、俺と真っ直ぐに向き合った。
その時、俺の中で何かが弾けた。俺はさっきまで時間が止まって欲しいと思っていた。ずっとずっと、この関係を続けたいとも思っていた。
でも違うんだ。本当は、本当は俺は――

「わたしが本当に壊したくなかったのは、失いたくなかったのは、この空間でも、この時間でもない。わたしがずっと、一緒にいたかったのは」
「――君が好きなんだ」

後輩が大きく目を見開く。俺は構わずに言葉を続けた。

「俺はずっと怖かった。変化を求めたら、失うものがあるって、あの時気づいたから。でも、それでも今は、変わりたいって思うんだ。ずっと続くと思っていた部活動も、やがて終わりが来る。それでもせめて、俺たちの時間だけは、ずっと流れ続けてほしい。そう思うんだ」

俺は君のことが、好きだから。

「たまらなく、好きだから……」

言ってから、全身が火に包まれたかのように熱くなる。見ると後輩も、似たように赤くなっていた。それが分かって、どちらからともなく笑ってしまう。
やがて、俺は言った。

「……なあ、コーヒーを入れてくれないか」
「そしたらまた、新しい物語を書いてくれますか?」

いくらでも書くよ。君のために。俺のために。

「……このコーヒー、うまいな」
「当たり前です」

変わってしまう毎日が、少しでも変わらずにいられるように。

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