支店長コーヒーお忘れですよ

Pocket

「コーヒーお忘れですよ!」自分でも頬が緩んで笑っているのがわかった。
幸せな気持ちだった。母の淹れたコーヒーの香りが夢の中まで香っていたのだと気が付くまでは。
目が覚めてぼーっとした頭で、「今頃なんであの人が夢になんかに出てきたのだろう?」
「そーかーぁこのコーヒーの匂いのせいだな・・・」
少し切ないような嬉しいような、自分でも気が付いていなかった気持ちに驚いた。
その夢に出てきた人は、カップを両手で包み込み美味しそうにエスプレッソを一口の飲むと、ニコーッと笑って私を見て頷いていた。その姿にまた逢えて心の底から幸せを感じた。夢の中で、「よかったです、支店長よかったです・・・」こちらも何回も頷いて笑った。
“支店長”とは、1カ月半前に退職した会社の上司で、営業事務の社員さんが産休に入るのでその代わりに2年契約で派遣されて仕事をしていた。

 
大手住宅メーカーの支店で、毎日「月末までに後何件ご成約いけそうだ!?」「○○様邸予算オーバーで無理です!」「今から訪問行ってねじ込んできます!」とか、それはそれは活気のある職場で、私自身も仕事を期限までにこなす事に追われていた。
そんな殺伐とした雰囲気のなか、負の空気を丸ごと引き受けて空気清浄して出しているような安心感のある上司、それが支店長だった。
身長は187cmでがっしりした体形でありながら、いつもニコニコしていて、部下の営業の悩みや相談を柔らかく包み込み肝心なことだけピッシとアドバイスし、専務や社長からの「売れ!」の催促からは盾になってくれる。まるで森の中心に立つ樹齢何千年の森の守り神のようだった。
帰りも遅く、ストレスも溜まるであろう毎日、支店長が唯一癒されていると思われる時間はコーヒーを飲んでいる時間。
他の女子社員の噂によると無類のコーヒー好きの支店長は、朝、奥様より先に起きご自分でコーヒーを落とし、スタバのグランデサイズのタンブラーに入れ、通勤途中の車中で飲みほす。
その後、道中のスタバに寄りそのタンブラーにショット追加のラテを入れてもらい、着く頃にはカラになっているというほどらしい。

 
更に会社に着くやいなや、自分のデスクの後ろにあるデロンギのエスプレッソメーカーを早速稼働さるのだ。もはや中毒の域である。
そのエスプレッソメーカーは豆をその都度一杯ずつ挽いてくれ、結構な高圧で抽出してくれるタイプのもので、スイッチを入れるたびに、豆を挽く高音を発した後ごごごごっつ!と低い抽出音を支店内になり響かせる。
事務所の湯茶に高価なマシーンと高価な豆に、経費が使用可能になっているのは、コーヒー好きの支店長の意向が反映された結果だと思われた。
そんなコーヒー大好き支店長だが、そうそうゆっくりまったりコーヒーを飲ませてはもらえない。
轟音をとどろかせエスプレッソを入れるのだが、大概の場合は電話がなったり、営業に値引きの相談をされていたり・・・。邪魔?が入ってしまい、入ったコーヒーが置き去りになってしまうのだ。
結果、美味しそうに泡だったクレマは消え冷え切ってカップの底へ沈殿。すっかり忘れ去られたコーヒー。
支店長が前のコーヒーを淹れた事も忘れて次のコーヒーを淹れようとすると、1時間も前に入れたコーヒーがそのままになっている。そんなコーヒーを支店長が仕方なく喉に流しこんでいる姿を、私は日に何回も目撃することになるのだった。
そんな事の繰り返しの毎日のある日、例の轟音のあとまた電話がなり「支店長○○銀行の△△様からお電話です!」と事務さんからのコール。
支店長を真正面に見るデスクの配置に座っている私は、「またか~」と思いながらコーヒーを取りに行き、支店長が電話をしている目の前に置いた。コーヒーに冷めて欲しくなかったし、支店長が冷たくなったコーヒーを苦虫をかみつぶした顔で飲む姿を見たくはなかったから。

 
電話を終えた支店長はまだ温かいコーヒーを両手に持って4つ先のデスクの私に向って「ありがとうございます!またコーヒー忘れるところでした!」
ニコニコ笑って美味しそうに一口飲んでそう言った。コーヒーを飲んで癒されている支店長の顔を見てこちらが癒された。
それからというもの、私は支店長のコーヒー管理人と化し、フロアのどこにいてもあのエスプレッソメーカーの轟音を聞くと、スタンバイして忘れられそうになるコーヒーを忘れる支店長の元へと運ぶのであった。
そのたび満面の笑みで「ありがとう!」と言ってくれる。
周りからは、派遣の女子がなにやら支店長に取り入っている・・・。そんな視線も感じたが、私はただただ、置き去りにされたコーヒーが見たくない、支店長に美味しいコーヒーを飲んでもらいたい一心だった。
支店長は派遣だろうがパートだろうがどんな立場の人間にも敬語で丁寧に接してくれる、相談してもまるで正社員に接するようにアドバイスをくれる。
“人間的に心から尊敬できる人”だという思いが前提にあった事は確かだが、それは恋とか愛とかとはまったく違う感情だと、私自身は確信していた。
たいして歳は違はないが、まるで父を尊敬するような気持だった。

 
私は小学校3年の時に父が病気で他界しているので、少しファザコン傾向にあるのは自覚
していた。そんな事も影響していたのかもしれない。
しばらくそんな事を続けていたある日、支店長の奥様が会社のお近くまでいらしたという事で支店に寄られた。
ご結婚される前は同じ職場でやはり営業事務としてお仕事をされていて、いわゆる職場結婚だそうで、ご主人は同期の中でも一番の出世頭で「見る目あったわよね~!支店長夫人だもんね!」っと、元同僚の輪の中心で笑っている奥様はTheできる女!の風情だ。
そんな奥様が、なぜか私につかつかと歩み寄ってきた。
「あなたがコーヒー運んでくれる子?いつもありがとうね」
元同僚達からのご注進で、情報は把握済というわけだ。

 
支店長はその横でなんの悪びれもなく「そーなんだよ~すごく助かっていて!」と、いつものにこにこ顔だ。この人に唯一欠点があるとするならば、女心が分からないという事かもしれない。
(まきこむな)こんな恐ろしい奥さんに睨まれたら、社会から抹殺される・・・。
やましい事などなかった私だが、「もうコーヒーと支店長の面倒をみるのはやめよう・・・」
その日以来エスプレッソメーカーの轟音を無視し、冷え切ったコーヒーを飲む支店長の姿もあえて見ないようにして、自分の仕事に没頭する毎日。一週間もすれば、これも当たり前の毎日になるのだろう。私の態度の変化に特に不審がる事もなく、結局私のお節介だったようだった。少し寂しい気持ちもしたが、厄介ごとに巻き込まれるのも嫌だった。

 
仕事を始めてからそろそろ1年半が経とうとした頃、季節は少し肌寒くなった10月に入っていた。奥様からの一言から3か月くらいたったある金曜日の17:30。仕事の終業時刻をむかえ今週の事務処理を完了しパソコンをシャットダウンした。同時に頭の上から「お疲れ様でした!」と、はきはきとした低音が私に話しかけてきた。びっくりして振り向いて顔を上げると、そこにはニコニコ顔の支店長が私を見下ろした形で立っていた。
「おっつお疲れ様でした!」
慌てて立ち上がって、頭をぺこりと下げる。
「これから、コーヒー飲みに行こうと思うのですがご一緒にいかがですか?」
「は?コーヒーですか?」と、私。
「そうですよ。明日から連休で○○モデルハウスでイベントでしょ?イベントや見学会の前日は気合い入れるために、コーヒー飲んで帰るんですよ。いつも行く喫茶店があってね!」
「は~・・」
「是非飲んでいただきたいんですよ~。もう僕が学生の時・・いや、それ以前からある純喫茶ってやつでね、ネルドリップなんです。コクのある美味しいコーヒーですよ!」
「ありがとうございます・・が・・」
「コーヒーの分かる方だから是非!」
いつから私がコーヒーの分かる人という事になってしまったのだろうか?
私の返事もろくに聞かず、すたすたとフロア出口の方へ歩いていってしまうので、慌ててバックを抱えて後を追った。
車で行くのかと思ったが、会社を出ると真っすぐ駅へと向かい、改札を通ると丁度ホームに入って来た電車に乗ってしまった。
また急いで後を追って電車に乗り込みようやく支店長の顔を見上げることができた。
1つ目の駅で「さっ降りますよ~」と、押し出され、また先を歩く支店長の後を追っかけた。だいたい背が高い上に営業時代に培った競歩並みの歩き、ほとんど私は小走りで着いていくような状態だ。

 

駅の改札を出て細かい路地をいくつか曲がると唐突に「ここ!」と、木製の扉を開けた。カラカラ~ン。銅製のベルが鳴り中へ入ると、カウンターとボックス席が4つという小じんまりした昔ながらの喫茶店。
先に入った支店長はカウンターへさっさと陣取っていた。
「こっちこっち!」大きいから言われなくてもわかります・・・。
「僕はモカでね、こちらのお嬢さんにはキリマンジャロね」
目の前で、黒い蝶ネクタイにベスト姿のそっくりな顔のおじさん二人が同時に頷いた。
「双子さんなんだよ!お二人で経営されていてね、ご兄弟共に我が社でお家建てていただいたんだよ~!」
双子は、目の前で黙ってシンクロした動作でお湯を三角のネルの中に円を描きながら落としている。
「いい香りですね~」思わず私の口から感動の言葉が漏れた。
程なく、目の前にロイヤルコペンハーゲンのカップに入ったキリマンジャロが置かれた。
支店長の前には、ヘレンドのグリーンの細い縁取りのあるカップに入ったモカが置かれた。
顔を見合わせて、同時にカップを手に取り一口飲んだ。
ペーパードリップと違いコクのあるしっかりとした味わい、本当に美味しい。
隣の支店長はいつものニコニコ顔で「この酸味がたまらない・・」と、幸せそうだ。
全く会話のないまま、コーヒーを飲み切ると、「行きますか!」っと、やおら立ち上がり、双子にぺこりと頭を下げ会計を済ませ出て行ってしまった。
また後を慌てて追い、「ごちそうさまでした!」と後ろから叫ぶ。
すると、くるっ!と振り向いて、
「気に入っていただけたら、常連になって差し上げてくださいね!僕もたまに来ますから!では、お疲れさまでした!また連休明けお会いしましょう!」
そう叫ぶと、駅の方へ消えていった。
その日の夜はキリマンジャロのカフェインのせいか、なかなか寝付けなかった。

 
連休明けはイベントで大量に発生したお客様カードの処理に追われて、支店長とも話す機会がなくそのまま月日は過ぎていった。
あのコーヒー店の一件以来、なんとなくもやもや気持ちがしていたのだが、考えないようにしていた。
そうこうしている内に、2年間の契約期間が満了し、産休の社員さんが帰ってくることになった。
支店を挙げて送別会を開いていただいた。その席でもなかなか支店長とは話せず、少し心残りで戴いた花束を抱えて帰りのタクシーに乗り込もうとした時だった。
「ライン!ラインします!」
大きな声で、大きな男の人が叫んで手を振っていた。
支店長だった。
「はい!ありがとうございます!」
私も叫んで手を振った。
タクシーの中で「ライン・・・知っていたかな?あー!緊急用にグループ登録したか・・・」
翌朝、支店長からラインが入っていた。多分最初で最後のラインだ。

“昨日はお疲れさまでした!
また、コーヒーを飲みに支店にも顔を出してくださいね!
酔っぱらった勢いで、ハグしようとしたのに、
しそびれました!”

「支店長らしい・・・」
そらから1か月半が過ぎた今朝、母の淹れたコーヒーの香りが、封じ込めた淡い気持ちを発泡させたのだろう。
もう会えないけれど、コーヒーを飲むたびに思う。きっと、ずーっと。

コメント