「苦いのをおいしいって思うのは、大人だけなんだって」
「ふーん」
でも私は、ビールは嫌いだし、コーヒーにはミルクも砂糖も入れる。じゃないと、飲めない。
コーヒーが好きなあなたは、そんな私を見てくすりと笑う。
大人になんか、ならなくていいと思う。
大人になんか、好きでなるものじゃないでしょ。
あなたを見ていて、思う。
今のままでいいじゃん。どうして辛いことや苦しいことに耐えるの。
昔のままがよかったんじゃない?何も考えずに、楽しいことやしたいことをやった方が幸せじゃない。
そう私がむくれると、きまってあなたは苦く、笑う。
「今の方が、いいよ」
さっぱり理解できない。
本当にいいなら、どうしてそんな風に笑うの。どうして飲み込めない顔ばかりするの。どうしていつも耐えてるようなの。
どうして。
それを理解するのが大人なら、私は一生コーヒーのおいしさなんて分からなくていい。
あなたはまた、苦笑する。
あなたの香りは、苦い苦い、コーヒーの香り。
勉強して大学に入って、私達はベルトコンベアーみたいに、大人達がつくった「社会」に運ばれていった。
右を見ても、就活マニュアルと就活講座。左を見ても、すっきりと完璧に整えられた黒髪にブラックスーツ。
まるで、よく出来た機械に乗せられて、規則正しく運ばれていくみたいだった。
お陰で、私は何の疑いも思考の余地もなく、大学が言うとおりに就活して、会社に送り込まれた。
彼と連絡が途絶えがちになった頃、初めて「彼」を、「社会人」として見ることができるようになっていった。
学生の時の私にとって、彼はただ、コーヒーが好きで、いつも薄く笑っていて、ほんのわずかの優しさを振りまいている人だった。
ガイシケイのギンコウイン、なんてよく分からないまま使っていた用語の意味を理解した頃、私は社会の海を必死に泳いでいた。
「仕事が出来る人」が「人気者」で「良い人」。
お客様のために働いたら、上司に嫌われて。
女性の先輩と無邪気に接していたら、辛く当たられるようになって。
今まで生きてきた世界とはまるで違う理論で、会社は回っていく。
当たり前のようにコーヒーをブラックで飲んで、栄養剤なんて飲んじゃって。
肩が凝ると文句を言っていたテーラード・ジャケットをはおって、駆けずり回って。
その頃の私は、ただ必死に毎日を消化していた。
気がつくと、同じ大学を出て、同じように会社で働いていた友達から結婚式の招待状が届くようになっていた。
たくさんの知っている人と知らない人がごた混ぜになった式場で、友達の笑顔が霞んで見えた。
ぼうっとしていると押し流されそうな光の洪水、礼儀正しく並べられたカトラリー、しみひとつないビロードのようなテーブルクロス。
別世界のように感じていた世界も、回を重ねれば冷静に値踏みをしている自分に気づく。
あんなに嫌いだったコーヒーだって、ビールだって、私は何も思わず飲み乾していた。
友達と居酒屋に行って、カルーアミルクを頼んだとき初めて「苦いものが嫌い」な自分を思い出すくらいだった。
深い夜に呑み込まれながら、私はいつの間にか、”彼”を思い出していた。
彼は、どんな風に思いながら日々を生きていたんだろう?
「今の方が、いいよ」
なんて、どんな気持ちで言っていたんだろう。
私は正しかった。
彼がいた世界は、辛いこと、苦しいことに耐える世界だった。
何も考えずに、好きなことややりたいことをやる……なんて遠い世界に感じる。
彼は何を思って、苦く笑って、私と向き合っていたんだろう。
「今の方が、いいよ」なんて、死んでも言えない。
でも、「今のままがいい」と言っていたあの頃に戻れないことくらい、私は知ってた。
彼から電話があったのは、寒い冬空の下、私が帰宅の途についていた時だった。
思わず口を突いて出たのは、「久しぶり」なんていうとても陳腐な言葉だった。
彼に言いたいことはたくさんあったはずなのに、胸が詰まるように苦しくなって、何も言えない。
『元気だった?』
思わず破顔する。
何よ、その返し。
「もちろん。そっちは?」
『いつも通り。悪くも良くもない』
彼の口癖だ。やだな、どうして泣きたくなるんだろう。
これが、懐かしいって気持ちなのかな。
地元の街を歩いているときに感じる気持ちとは違う。
胸を突くような、痛いような、悲しいような、あたたかいような。
すぐ近くの公園で流れてる「夕焼け小焼け」が、いつもと違うメロディに聞こえる。
子供の頃、「夕焼け小焼け」は、嫌いな音楽だった。
楽しい遊びを中断して、大好きな友達に別れを告げて、家に帰らなきゃいけなくなるから。
一拍おいて、不意に気づく。
あの頃には、戻れないんだ。
当たり前なのに、どうして今更思うんだろう。
ずいぶん、遠くまで来ちゃった、なんて。
「ねえ、今、何してるの?」
『いつも通り。本日も新幹線の中でサーフェイス。さすが、持ち運びしやすさと使いづらさは天下一品だね』
のんびりと、ふわふわと、彼の言葉は宙を舞っていく。
これでよく、外資系の投資銀行なんて勤まるものだ。
昔なら一ミリも思わなかったような感想が頭をよぎっていく。
「聞いてもいい?どうしてあのとき、私に声を掛けたの」
昔は疑問にも思わなかったのに、今はそんな風に問いかける。
『……』
意外そうな沈黙が、電波を伝ってこちらの耳まで届く。
今の私の素直な言葉が、彼を驚かせる。
あの頃の私には、戻れないんだ。
その言葉が、すとんと胸の底に落ちる。
鼻先が凍るような冬、私は喫茶店で暇を潰していた。
一人きり、砂糖をたっぷり入れたカフェオレを口に含んでは、持っていた本をぱらぱらとめくっていた。
なぜ、そんなところにいたのか今となっては思い出せない。
多分、友達が遅刻をしたか何かで、ただ単純に暇を潰していただけだと思う。
ドラマチックさのかけらもない。
そんな平凡な女子大生に、外資系で金融マンの彼は声を掛けた。
「渋い小説読んでるんだね」
私が何か思う前に、彼はするりと席に腰掛けた。
ナンパをするとき、不愉快に思う人と、そうでない人がいると思う。
その線引きはとても難しい。顔の造形がどうとか、清潔感とか、服装とか、いまいち明瞭な決まりはなかった。
だというのに、その判定ははとても明確で、つまり彼は、不愉快にならない空気感の人だった。
「「おいしいコーヒーの入れ方」か。カフェで読むなんておつだね」
ふわふわのメレンゲのような笑い方で、彼は気楽に話しかけてきた。
完全に偶然だった。
その小説は、文学好きの姉から借りたもので、それが何でも良かったし、私はそういう基準で与えられたものを素直に受け取って楽しめるような人間だった。
そのくせ、中身についてはよく忘れたりする。
彼とのその後の会話だって、そのたぐいのものだった。
彼はコーヒーにえらくご執心のようで、灰色の大学受験時代に飲み始めたブラックコーヒーでその世界にドップリ浸かったこと、缶コーヒーに使われているコーヒー豆は大きく分けて2つあって、まずいのとおいしいのがあること、コーヒーの煎り方、コーヒーの入れ方、ストレートとブレンドの話、ノンカフェインコーヒー、グアテマラフレンチ、エチオピア・ネキセ、カフェ・ベロナ。
エスプレッソのシングルもダブルもよく分かっていなかった私にとって、彼の話題は、さながら異文化交流だった。
「大学生なんて久しく話してない」なんて言う彼のために、私はインスタとか、ツイッターとか、ラインとか、合コンとかの話題を提供した。
その流れで自然に連絡先を交換して、彼はまんまと、女子大生プレミアつきの私の時間を押さえられる権利を手に入れたというわけだ。
寂しいと思ったことは、時折あった。
約束がないことに対して、真剣に考えてみようと思ったときもあった。
でも、次の日には忘れてしまって、川の流れを下るように、私達はここまで来た。
たぶん、彼の空気を気に入っていたんだと思う。
ふわふわ、ふわふわ、つかもうとしてもつかめないような、そもそも何もないような…。
彼の前の連絡から今日まで、5年が過ぎていた。
普通の人だったら「終わったんだな」と思っていたと思う。
でも、私にとって彼は、普通に思い出せるくらい、5年間、1825日を一瞬で0日にできるような、とてもとても近い人だった。
『普通の子だったからかな』
「……」
ノイズ混じりの音が届く。
彼の唇からは、今も豊潤でほの苦い香りがするのだろうか。
『つまらなそうでもなく、楽しそうでもなく、淡々と本を読んでるって感じで、良いなって』
「よくわからない」
『平凡なことが、偉大なときもあるよ』
また、よくわらないようなことを言う。
彼の言葉の意味なんて、深く考えるだけ無駄なのだ。
「じゃあ、私、もう、あの頃の私じゃなくなっちゃった。平凡な頃の私はもういないんだな、って思う」
『そうだろうね。今、俺もそう思ってる。あの頃の君はいない』
妙にきっぱりとした語調だった。
『そんなの当たり前だよ。だから、今の俺も、君の中の俺と違うよ』
「私の頭の中なんて、知らないくせに」
『ごもっともだね』
軽く笑う、調子がいつもより明るい。
「今どこにいるの?私の頭の中、知りたくない?」
『今は、名古屋。これから東海道新幹線で東京駅の赤い駅舎に着く。今すごく、何でもないポテサラとか、サラダとか、ビールを口に入れたい気分』
「それくらいなら作れる。うちにおいでよ」
『料理なんか作るとは恐れ入ったね。5年は、長いね』
「そうだよ。コーヒーのことだってもう分かるんだから」
『会いたい。君の頭の中、見せてよ』
「そっちこそ、今度こそちゃんと話してよ」
『これだよ。今までちゃんと話してきたんだけどなぁ』
心がはずむ。頭の後ろで、すうっと心地の良い風が通る。
平凡だった頃の、彼にとって尊い私はいない。
それでも彼は、私の頭の中を見に、こっちへ来る。
ずいぶん遠くまで来てしまった旅路の向こう側に、彼との交点がある。
コーヒーは苦いから嫌いと言えた、幸せだったあの頃には戻れない。
でも、あなたには会える。
あの頃と同じ顔をしてる、違うあなたに会える。
だから私は、今がいい。
「苦いのをおいしいって思うのは、大人だけなんだって」
「そうなんだ」
彼が買ってきた小さなコーヒー・ミルに、開けたてのブレンド豆。
その2つを眺めながら、私は適当に相づちを打った。
「前も同じ話をしたなぁ」
私が作ったタマネギ抜きのポテサラを、彼はもぐもぐと咀嚼する。
彼のスーツからは、ほろ苦いコーヒーの香り。
香水とも葉巻とも違う、苦みや胸の透くような香りを幾重にもまとった、大人の香り。
「そうなの?」
「君は変わらないね」
さっき、あの頃の君はいないとのたまったくせに、これだ。
彼の言葉は、お腹の底から安心できるくらい、深く考える必要がない。
記憶の中とは微妙にぶれる、彼の香り。
ここでいい。ここがいい。
「うん。そろそろいいかな。コーヒーをお入れしましょう、姫」
あなたの手から現れたコーヒーは、ほの苦い恋の香りがした。
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