Coffee & waitless

コーヒーと恋愛
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僕は、会社に勤めだした20代前半の頃、昼休みには会社の近くにある行きつけの喫茶店に一人で出向き、厚切りピザトースト1枚とキリマンジャロ1杯を注文し、これらをゆっくり頂きながら好きな本をしっかり読んで時間をつぶすのが日課となっていました。お店で出されるピザトーストは、厚い食パンに具材がたっぷりと載せられ、やや辛みのきいたトマト系ソースを載せた素敵で美味しいものでした。
普通、会社の昼休みというものは、何人かの同僚と定食屋に行き、ワイワイやって上司の悪口を言い合いながら腹いっぱい食べ、ひとしきり憂さを晴らした後、帰りにコンビニエンスストアで缶コーヒーを買い、デスクに戻ってからコーヒーをすすりつつ、午後の仕事を開始することが多いのではないだろうか?
ただ僕の場合は、同僚が嫌いなわけではないが、そういうワイワイやるというのが性に合わないので、前述のように行きつけの喫茶店にいつも一人で出向いていたということです。そして、自分だけの時間を満喫してから、午後の仕事に、あくまで自分のリズムを守りながら就いたのです。そのリズムを守るには、甘いコクと上品な香りに優れて、雑味の無い後味で飲みやすいキリマンジャロがとても良かったのです。

そんなある日、僕の人生が変わったと言っても過言ではないほどの出来事が起きてしまいました。何が起こったって?それはそれは大変な、重大な事件だったんですよ!
女子の話は照れ臭いのでそんな話題をいつも極力避けていた僕の前に、というか、僕が行くお店にウエイトレスとして理想のタイプの女性が来てたんです。
この行きつけの喫茶店は、いつも渋い顔をして無駄口を一切言わないタイプの質実剛健のマスターと、今時普通にどこにでもいるチャライ系のウエイターとで切り盛りしていたのに、今日は少しだけいつもと違っていました。

いや、少しだけではないのです。全然違うのです!ドッカーン!!僕の頭が噴火してしまったようです?!
でも、僕はいつもの冷静な態度を少しも変えることなく、いつものように厚切りピザトースト1枚とキリマンジャロ1杯を注文し、ゆっくり頂きながら好きな本を読んで・・・と行くはずだったんですが、そうは問屋がおろしません。
足もガタガタ手もガタガタで、震える手で厚切りピザトーストとキリマンジャロを頂いているので、口の中にピザの具材が収まりきらず口の周りがソースだらけになり、膝の上にキリマンジャロを零して「アッツツ~」というありさまになってしまいました。
いつもならこんなことがあったとしても、マスターもチャラ男くんも見て見ぬふりしてスルーしてしまうんでしょうけど、この日は、そう、あの子がいたんですよね。
「あっ、大丈夫ですか?熱くありませんでしたか?」と言って、すぐさまお絞りを持ってきて僕のテーブルの上に置き、僕の顔を心配そうに覗き込んでいるではないですか。
こ、これは奇跡としか言いようがありません。あの人と、こんな近くでお話しできるなんて。

そして次の日からは、昼休みに喫茶店に行く僕の目的は、やや違ったものになりました。
いつもの時間にいつものようにお店のドアを引いて開け、チリンというベルの音を聞きながらマスターに目配せをして、カウンター隣にあるお決まりの一人掛けのテーブルの所に着席しました。
ん~、ここからがいつもとは違うところです。
いつもなら、10分くらいしてマスターが「キリマンジャロ、お待たせ!」と言うと、僕は視線をそのコーヒーカップにロックオンしたままの状態で静かに歩き、「どうも~」と言いながらそのカップを受け取ります。そして、さらに5~6分もすると、あのチャラ男くんが「ピザトースト、お待たせ」と言って持ってくる、というのが定番でした。
でも、この日は勿論いつもと違い、10分ほど経ったころ「キリマンジャロ、お待たせ致しました」と言ってウエイトレスさんが僕のところまで運んできてくれました。そして、さらに5~6分したところで、ウエイトレスさんが「ピザトースト、お待たせ致しました」と言って運んできてくれました。この人は啓子さんと言うんだそうです。昨日帰りがけに、マスターにそっと聞いておきました。

目元がぱっちりして話し方がハキハキしていて、太陽のように明るい雰囲気を持っている啓子さん。
向こうは何にも思っていないんだろうけど、こっちは人生が変わるほどの大レボリューションです。
昨日までアクセルをチンタラ踏んでいた自分が、今日は超マックスにアクセルを踏み込んでいるような気分です。

ここで例えば、揺れている吊り橋を渡るような状況において一緒に行動した男女は、その際の緊張からくる胸の興奮を恋のドキドキ感と勘違いして恋愛関係に発展しやすい「恋の吊り橋論」とでも言うべき理論があるそうです。また、コーヒーを飲むと、カフェインの働きで副交感神経が高まってリラックスできるようになりますが、同時にカフェインは交感神経を活性化させる効果も奏するため、血流がよくなって心拍数が上がり、あたかも恋でドキドキするときのような興奮状態になりがちだそうで、これはコーヒー版「恋の吊り橋論」とでも言えるのかもしれません。
つまり、僕が啓子さんの前で落ち着こう落ち着こうとしてせっせとキリマンジャロを飲んでいたことで、僕はまんまと「恋の吊り橋論」の術中にはまり、啓子さんの虜になってしまっていた可能性がありそうです。でも、これはコーヒーを飲んでいなくとも啓子さんの魅力に負けてしまうのは、誰でも当然のことだと思います。

それからも毎日通ううちに、僕はいつしか啓子さんと普通にお話しできるようになっていました。もちろん、客とウエイトレスの関係はきっちり維持したままですが。いわゆる普通の人間である客と、普通のウエイトレスとの関係です。なんのことはない。僕が冷静になって、あせらずに彼女と普通にお話しできるようになった、というだけのことです。

ある日、僕は会社帰りにもあの喫茶店に寄ってみることにしました。
いつものようにドアを開けてチリンというベル音を鳴らすと、ウエイトレス、いや啓子さんがこちらを見て、明るい笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかけてくれました。
本当は僕のことどう思っているんだろう?などと思いながら、カウンター隣のお決まりの一人掛けのテーブルの所に着席すると、今日の僕は、「コーヒーの王様」とも言われるブルーマウンテンを注文しました。ブルーマウンテンは、苦味、甘味、酸味、香り、コクの全てが絶妙なバランスを保っていて、繊細な味を生み出しています。

僕がいつもと違うものを注文したものだから、マスターが「プーッ」っと噴き出すような仕草をすると、チャラ男くんはチャラ男くんで、「え~、何があったの?」というように、僕の顔と啓子さんの顔を見比べるように目を泳がせながら肩を軽くすぼめました。
まあ、なんということもない、僕は僕でいつもとは違う気分で落ち着いて皆さんとお話しできればいいな、と思っていただけです。
なんていうのは大嘘で、本当は啓子さんの目を引きつつ、帰りにレジでお金を払うとき「あとで会いませんか?これが携帯の番号です」などと書いたメモ紙をそっと渡そうと思ったからでした。

このあたりから僕の緊張はピークに達し、ドキドキ感がマックスになってきたので、追加注文した2杯目のブルーマウンテンを一気に飲み干してしまいました。これでは、一杯飲み屋で焼酎を一気にあおって彼女に告白するのと同じような感じですね。
僕の一挙手一投足は皆さんにつぶさに観察されていて、マスターもチャラ男くんも他のお客さんたちも、笑いたいのをググッとこらえてて目から涙がにじみでていました。
僕は、たかだかコーヒー代を払うのに、親の仇をにらみつけるような顔でレジに向かってズンズンと歩き出しました。すると、啓子さんは、何事かと思いながらもレジのところに立ちつくし、僕のことを震える笑顔で迎えていました。
「ど、ど、どうもありがとう!」
「ありがとうございました。○○円になります。」
「あ、あの、こ、これを!」と言いながら、あのメモ紙を啓子さんに手渡しました。

この瞬間、僕の一挙手一投足を注視していたマスターもチャラ男くんも他のお客さんたちも、一斉に「プーッ」っと噴き出し、笑いの大合唱が始まりました。
これには、さすがの啓子さんもたまらず、泣きそうな顔になって「クッ、クッ、クッ」と可愛そうなくらい抑えた笑い方で下を向いてしまいました。
僕は僕で、メモ紙を啓子さんに手渡したことで任務完了とばかりに油断し、ドアを開けて外に出るとき頭をカドにぶつけてしまい、「ゴン」という音と皆の笑い声に見送られる形でお店を出ました。

でも、思わず笑っていた啓子さんは、メモ紙を手渡されたときに全てを悟り、僕の気持ちを汲んでくれていたようです。これはあとから分かったことですが。
あの日、喫茶店から帰ったあと啓子さんから携帯に連絡が入り、お互いに大笑いしながら思う存分話しをすることができました。

啓子さんは、僕の気持ちを少し前から、もしかしたら?と思うようになっていたということで、僕の努力はちゃんと彼女に伝わっていたようなのです。
このようにしてお付き合いを始めた僕と啓子さんは、お店の中では客とウエイトレスの関係を保ち、お店の外では恋人同士という関係で過ごすようになりました。

アメリカで実施された研究では、コーヒーを飲む高齢者と飲まない高齢者とを比較した場合に、飲む高齢者は飲まない高齢者より死亡リスクが低下するという研究結果が報告されているようです。
死亡リスクの差は、心疾患、呼吸器疾患、脳卒中などに顕著にみられたとのことでした。
僕らの仲は、言わば喫茶店でコーヒーがとりもってくれたものですので、その健康的な効果により互いに長生きして末永く幸せになるようにしていこうね、と確認し合いました。

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