何故大人って、あんな苦いコーヒーを飲むんでしょう

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「うん。そろそろいいかな。コーヒーをお入れしましょう、姫」

あなたの手から現れたコーヒーは、ほの苦い恋の香りがした。
わたしの中の先輩は、今もコーヒーを口にしています。

「何故大人って、あんな苦いコーヒーを飲むんでしょう」
わたしの質問に対し、先輩はこう言いました。
「あの人たちは、苦いなんて思ってないさ。思ってないから、大人なんだよ」

 

あれは、まだわたしが高校一年生の頃でした。部活動に加入していなかったわたしは、アルバイトを始めようと思い、地元の喫茶店に応募しました。駅から少し離れた、小さな喫茶店です。友達と行った時、その落ち着いた雰囲気に魅了されて――なんてことはなく、喫茶店で働くなんてお洒落じゃん、という我ながら安易な発想からでした。
緊張しながらも、どうにか採用されて、わたしはそこで働き始めました。そして、すぐに後悔します。そこで働く人たちは、店長も含めて、なんだかすごく大人な人ばかりでした。年齢でいえば、わたしと三つ四つしか変わらないのに、やたら落ち着いていて、一方のわたしは中学生のがきんちょが背伸びして働いているみたいな状態で、失敗ばかり繰り返しました。
結局、辞めようか迷うまで一週間とかかりませんでした。だって、常連のお客さんから幾度となく呆れられた顔をされるんですよ。そんなの辛いし……何より、きちんと仕事をしている従業員の方々に申し訳ないじゃないですか。
そんなわたしはある時、閉店後の残った洗い物を進んでやると申し出ました。最初は新人だからと店長に断られたけれど、どうしてもと無理を言ってやらせてもらいました。店長にはお礼を言われたけれど、それは決して店のためなんかではなく、自分の罪悪感を少しでも和らげたいからでした。

 

洗い物が終わって、休憩室に帰ります。「はあ」と言ってから、自分がため息を洩らしたことに気づきました。なんだか体も重いです。店長になんて言って辞めよう、そんなことばかり考えてしまいます。
「どうかした?」
だからこそ、突然後ろから声をかけられた時は飛び上がりそうになりました。振り向くとそこにいたのは、バイト歴の長い男の先輩でした。先輩はこの辺の大学に通っていて、そこそこ頭も良く顔も良い、まさに出来た人間でした。身長が高いのもグッド。大人に感じる従業員の筆頭で、そんな先輩を気に入っているお客さんがいるのも、この一週間でよく見かけました。
「いえ……ちょっと疲れただけです」
そしてそんな先輩に対し、わたしはあろうことか苦手意識を持っていました。でも、誰でもそうじゃないですか。完璧な人って、なんか近づきがたいというか、何を話していいか分からないっていうか。
「なにか悩んでる?」
そんなわたしの気持ちなど露知らず、先輩は踏み込んだ質問をしてきます。きっと仕事のできない後輩がいたら、こういう風に話しかけるのでしょう。そこまで分かっていながら、わたしは首を横に振りました。
「いえ、別に……ちょっと寝不足で」
ここで、仕事が上手くいかないんです、と打ち明けられないのが、悪いところかもしれません。なんというか、妙なプライドがあるんです。ここで寄りかかったら、余計子供に見られるというか。『仕事ができなくて愚痴を吐く駄目な後輩』よりかは、『仕事はできないけれど弱音を吐かない前向きな後輩』に見られたかったのです。いずれにしても、くだらないプライドです。
ふうん、と言う先輩。わたしはこの話を続けたくなくて、無理やり話題を変えました。
「先輩、今上がりですか?」
「うん。やっと終わったところ」
そういえば、先輩と上がりの時間が被ったことがありません。きっといつも、こうして遅くまで残っているのでしょう。
そうでしたか、お疲れ様です――そう言って自分のロッカーに向かおうと思ったら、先を越されました。
「コーヒーでも飲む?」
休憩室にあるコーヒーマシンを指差し、先輩は言いました。いえわたしはすぐ帰りたいので失礼しますどうぞごゆっくり――なんて言えるはずもなく、わたしは笑顔で頷きました。「頂きます」なんてよそ行きの声を出している自分が、ひどく情けなかったです。
「お待ちどうさま」
そう言って先輩は、机にカップを乗せました。わたしの分と、先輩の分。向かい合わせに座って、お互い手に取ります。そこで気づきました。……このコーヒー、どす黒い。
黒黒黒、真っ黒。まるで墨汁を垂らしたように――なんて大げさですね。ただのブラックコーヒーです。この一週間で何度もお客さんに出したそれです。
先輩を見ると、すでに口につけていました。平気そうな顔で、飲み慣れているとばかりにカップを傾けます。そして固まっているわたしを見ました。
「どうかした?」
「あ、いえ……」
少し悩んだような顔をした後、閃いたとばかりに言いました。
「ひょっとして」
そうなんです。わたし、実はブラックコーヒーが……。
「喉、渇いてなかった?」
ずるり、イスから落ちそうになります(実際は肩を落としただけですが)。気を抜いた瞬間、先輩は見透かしたような目をして、
「……それとも、ブラックは苦手だった?」
その時、わたしは何だかむっとしてしまいました。小ばかにされている気がしたのです。おまえ子供だなとか、子供な上に素直に言えないでいるなとか、そんな風に思われた気がして(もちろん、今思えば被害妄想に違いありませんが)。
「いえ、大好物です」
だからこそ、強がりました。飲み物を大好物と言うのもなんだかおかしい気がしますが、わたしは構わずカップを口につけました。そしてごくごくと飲みます。
「んん……」
一気に飲み干してやるつもりが、実際は三分の一もいかずに終わりました。不味い、くそ不味いです。苦すぎます。青汁のほうがまだマシです。すみません、青汁飲んだことなかったです。
わたしはさぞや変な顔をしていたのでしょう、向かいから「ぷっ」と笑い声が聞こえました。
「あははは!」
先輩が笑っています。この上なくおかしいというみたいに。わたしは全身が熱くなると同時に、頭の片隅で思いました。笑っている先輩は、今までの大人な雰囲気が取っ払われて、まるで少年のように見えました。わたしよりも年下に感じてしまいます。
ひとしきり笑った後、先輩は言いました。
「ごめん、笑っちゃって……。でも、そんな辛そうに飲む必要ないのに」
「別に、全然辛くないですよ」
「いやいや、あれが辛そうじゃなかったら、俺の目がいかれてるよ」
「ブラックコーヒーくらい、毎朝飲んでますし」
「じゃあ一緒に住んだら、俺は毎朝笑っちゃうなあ」
そんな不意打ちの一言についどきっとしてしまいました。先輩を見ると、なんてことない顔をしています。ふむ、これが彼のやり口なのでしょう。怒りの感情が急速に萎んでいくのを感じました。いえ、実際は怒ってなんていなくて、ただ自分が惨めに思えていただけなのですが。
先輩は席を立って、コーヒーマシンのところへ行き、近くにあったミルクと砂糖を取りました。そしてそれを、わたしの目の前に持ってきます。
「飲めないなら、飲めないって言えばいいのに」
きっと先輩なら、それができるのでしょう。わたしみたく要領の悪いガキは、そうすることでしか強がれないのです。ちっぽけなプライドだというのも、あほらしいというのも、何より自分が分かって、
「先輩の前で無理するなよ」
「…………」
わたしは、言い返そうと思った口を閉ざします。そこで、自分が言い返そうとしていたことに気づきました。さっきまで関わらずに逃げようと思っていた相手なのに。人と揉めるのが、何よりも嫌いなわたしなのに。
無理するなよ――その一言が、妙に胸に残りました。
わたしは持ってきてくれたミルクと砂糖を、これでもかとばかりに投入しました。どす黒かったコーヒーは、温かみを取り戻すように柔らかいブラウン色になりました。口に含むと、かなり甘くなっていました。明らかに入れすぎです。
「先輩は……コーヒー好きなんですか」
そりゃ好きでしょう。だからこそここで働いているんです。わたしみたいにお洒落っぽいからなんて理由で決めたお子ちゃまとは違う。
「いや、超嫌い」
わたしは驚いて先輩を見ました。先輩は、なんてことない顔をしてました。
「え……嫌い?」
「うん。めちゃくちゃ苦いし。コーラの方が百倍美味しい」
おえ、と吐くような素振りを見せる先輩に、わたしは思わず笑ってしまいました。
「不味いのに、飲んでるんですか?」
「まあね。ブラックコーヒー飲めるって、なんか大人じゃん」
大人じゃんって、そんな曖昧な。わたしはますますおかしくなってしまいます。
「おいおい、笑いすぎだろ。そんなにおかしかったか?」
「だってそんな理由、まるきり子供じゃないですか」
「むしろ俺が大人にでも見えてたのか? もはやおっさんか?」
三つしか変わんないんだぞ、と先輩は少しむくれます。わたしの中のおかしいという気持ちが、さらに膨らんでしまいました。お腹を抱えます。
「俺と君の違いは、コーヒーに砂糖とミルクを入れられるかってことだな」
「? どういう意味ですか?」
「甘いものが入れられなくなる前に、入れておけってこと」
先輩は自分のコーヒーをすすります。そして、
「……苦い」
わたしはまた、笑ってしまいました。

 

それからわたしたちは、よく話すようになりました。仕事中、ミスしそうになったわたしを先輩がカバーしてくれたり、お客さんに怒られる前から、先輩が注意してくれたり。
お店が閉店したら、わたしが洗い物をして、先輩が残った業務をやって……時にはわたしの方が早く終わったり、店長から今日はやらなくていいよと言われる日もあったけれど、わたしは何となく休憩室に残っていました。何となく、なんて卑怯かもしれません。わたしは間違いなく、先輩を待っていたんだと思います。
二人で決まって、コーヒーを飲みます。わたしは甘すぎるコーヒー。先輩は苦すぎるコーヒー。
「先輩は普段、なにしてるんですか?」
「別に何ってこともないよ。弟たちの世話したりとか」
「兄妹いるんですか?」
「弟が二人。んで俺が長男。こんな立派な兄を持って、弟は幸せもんだなあ」
「絶対自分で言うセリフじゃないですよね、それ」
「逆に、そっちは何してるの?」
「別にわたしは……買い物とか、映画とか」
「変顔の練習とか?」
「……怒られたいんですか?」
「すみません」
先輩が笑う。わたしも釣られて笑ってしまう。――気づくと、こんな質問をしていました。
「先輩って彼女いるんですか?」
言ってから、後悔します。

 

何言っているんだろう。こんなの、自分気がありますと言っているようなものです。そしてそれを悟られたら、この時間もなくなってしまうかもしれません。
でも、それでいいとも思いました。たまに先輩は、どこか遠くにいるように感じるんです。遠くを見ている。わたしでもない。この職場でもない。もっと遠くの何かを見ているように感じてしまいます。だからこそ、知りたかったのです。
「…………」
先輩は黙りました。気まずい沈黙が、休憩室に流れます。やがて、口を開きました。
「……いないよ」
その答えを聞いて、わたしは俯いていた顔を上げました。きっと鏡で見たら呆れるくらい希望に満ちた瞳をしていたかもしれません。でもそれはすぐ終わりました。その瞳の先にあった先輩の表情が、ひどく悲しげだったからです。
まるで、見たくない現実を見たかのような。届かないものに、手を伸ばしたかのような。
それきり、わたしはその話題をやめました。先輩が遠い目をするのもいやですが、悲しい顔をするのは、もっと嫌だったからです。
代わりにもう一つだけ、気になっていたことを聞きました。
「先輩は、どうしてそれを飲んでいるんですか?」
わたしは先輩の手元にあるコーヒーを指しました。先輩も、そちらを見ます。
以前は大人っぽいからと言っていたけれど、でもそれにしたって、いつもなのです。すでにわたしには苦手だということがばれているのですから、見栄を張る必要もありません。
「どうして……」
目を細めて、コーヒーを見下ろします。そんな表情をすると、先輩はかなり大人になったような――いえ、十歳は老いてしまったような、そんな寂しさを感じます。
「苦いからかな」
「……苦いから?」
「これを飲むと、苦いって分かるんだ」
よく意味が分かりません。わたしの顔を見てか、先輩は表情を和らげます。
「なんでブラックを飲めると、大人に見えると思う?」
まるで先生が生徒に問うように、優しく先輩は聞いてきます。わたしは迷った末、思ったままを口にしました。
「……子供が飲めない苦いものを、飲めているから?」
「じゃあどうして子供は、苦いものを飲めないんだと思う?」
「……美味しくなくて、我慢できないから」
先輩は、小さく頷きました。やっぱりわたしは訳が分からなかったけれど、先輩の顔を見ると、それ以上質問を重ねることはできませんでした。
「コーヒーってさ……苦いんだよなあ」

 

先輩が突然いなくなったのは、その会話のちょうど一週間後でした。わたしどころか、同僚にも何も言わず、まるで風のように先輩は消えてしまいました。
わたしは驚いたけれど、意外にもすんなり受け入れることができました。ショックではあったけれど、でも、そんな気がしていたのです。先輩はよく、遠くを見ていたから。
それでも理由だけは知りたくて、店長の下に行きました。最初は渋っていたけれど、わたしがどうしてもと引かないので、他の人には内緒という条件の下、話してくれました。
「両親が離婚してしまったらしくてね。彼を含め子供三人は母方に引き取られたらしいんだが、とてもお母さんだけでは家計を支えられなかったらしい。長男である彼も、大学を辞めて就職したそうだ。どこで働いているか……それも、知りたいかい?」
わたしは首を横に振りました。先輩に教える気があるなら――そう思っているのなら、わたしは今、店長に聞いていないでしょう。
わたしは、幾分慣れた仕事をこなして、すっかり担当になった洗い物を終えて、休憩室に戻りました。中には、誰もいませんでした。
そこでわたしは一人、コーヒーを注ぎました。迷ったけれど、ミルクと砂糖は入れませんでした。
先輩に以前、質問したことがあります。――何故大人って、あんな苦いコーヒーを飲むんでしょう。
わたしの質問に対し、先輩はこう言いました。
「あの人たちは、苦いなんて思ってないさ。思ってないから、大人なんだよ」
コーヒーを口に含みます。先輩はずっと、この苦味と戦っていたのでしょう。苦いと思わなくなる日を、待っていたのでしょう。
「……やっぱり、苦いなあ」
わたしもいつか、大人になれるのかなあ。

わたしの中の先輩は、今もコーヒーを口にしています。

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