スミレとキリマンジャロ

学生の頃、(ご想像にお任せ!)勉強のついでに近所のコーヒーショップに出かけた。そのときの話をしてみようと思う。ある日、通い付けの喫茶店「G」に出かけたんだ。いつものお決まりのコーナーの席があって、僕はその窓際の角席が気に入っていたから、必ずそこに座ることにしていた。

 

席から通りを眺めると、近所の見たことのある誰かが通りかかったりして、相手は見られていることが分からないから、思わず吹き出すような場面も見られたりして、なかなか趣味の悪いVIPな気分になったりできる。そんなに忙しい店ではないけど、このコーナー席が誰かに占拠されているときもたまにあるから、そんなときは、時間を変えて、改めてお店に出かけて、必ずその席で数学の予習を済ませたり、ノートを見たりするようにしている。僕にとって、そこはそれほどお気に入りの場所というわけだ。

 

その席に座ってメニューを眺めると、すぐ女の子がやってきて注文を取ろうとする。でも、決まって、「決めたら呼ぶね」と言って、一旦間を開けることにしている。だって、あまり早く注文しても、何か、お得意の常連みたいだし(常連ではあるけれど)、ここのコーヒーショップは、毎日のように常連たちが幅をきかせていて、いつも図々しくてお店になれなれしいから、その仲間だと思われても何だよなと考えたりしていたので、というような漠然とした理由だけど、本当のところはあとでお話しすることにする。ひとまず、メニューを眺める振りをして、実は、もう、「本日のストレート」一択。本日は「キリマンジャロ」なんだけど、いろいろとメニューを見て、それなりに選択している振りをするのが、結構、自分でもまどろっこしかったりするんだな。でも、意を決して決めた、ということにして、頭の中で、空想の物語がずんずん進んでいった結果として、「すいませーん、やっぱり、僕、キリマン大好きだから、キリマンね」なんて、ひと言余計に言葉が浮わついて出ている自分に多少はちゅうちょしつつ、でも、少しだけ大きめの声で、その女の子を呼んだりするんだ。何か少し恥ずかしいよな。でも、「はーい」って明るい声で、そのウエイトレスのバイトの子が、何よりも自分を優先して来てくれるような気がして、うれしいやら、照れるやらで、いたずらに、にこにこするのも、どこかはばかるけど、まあ、斜に構えるのも何だから、足だけ組み直して、「じゃあ、お願いね」なんて言って、すぐ携帯を見ている振りしてみる。だけど、本当は、頭の片隅でその子の後ろ姿と、その後のリアクションを追いかけていたりする自分が、何か妙にほほえましく思えたりするんだな。「変態!」と呼ぶなら、呼んでくれよ、誰にでもそんなことがあると思っているんだけど。

 

コーヒーの香ばしい匂いが店中に満ちる頃、そそくさと運ばれてくるキリマンジャロ。実は、このキリマンが、果たしてどこで収穫されて、日本にやってきたのかさえ、おぼろげにしか記憶にないんだけど、そんなことはどうでもいい。何せ、ストレートのコーヒーが安く飲めて、そこはかとなく、ちょっと大人っぽく過ぎていく時間がとてもいい気分なんだから。うまくコーナーの席が取れないときは、少し居心地が悪いから、勉強する気にもならないんだけど、今日は取れたからよしとする。さあて、続きをやるとするか。ノートを眺めていると、スミレのブーケのようないい香りが僕のそばを通り過ぎた気がした。物憂げに目を上げてみると、ウエイトレスのあの子が、別のお客にコーヒーとパンを運んでテーブルに置いた瞬間だった。何かくらくらとめまいを感じたのは当然で、ウエイトレスの女の子の腰から、少し肌色がのぞいていたから、思わずじっと見てしまっていたんだ。「あ?いけない!」と思ったのもつかの間で、急に女の子が振り返りざま、僕の顔をまじまじと見ていた。今の僕の視線に気がついてしまったんだろうか。目と目が合ったので、僕には、笑うしか手がなかったんだけど、その子はすぐにカウンターに戻っていったから、僕の頭の中は、数学どころじゃなくなってしまった。きっと、あのウエイトレスは僕のことを、すけべなやつ、と考えてしまったかもしれないな。

 

いやいや、きっとたまたま目が合っただけで、よくあることさ。なんて、僕の頭の中は、高速でぐるぐると、今思えばどうでもいいことを考え始めていたんだ。もしかして、あの子の気に入らないことを僕がしてしまったのかもしれない、謝らなきゃ。

「ごめん、ね」。すぐに目の前を別のお客を迎えるために通っていったその子に向かって、小さすぎる声でつぶやいたんだけど、その子は、結構、さっきとは全く違うようなちょっと冷たい感じで通り過ぎていったような気がした。少なくともそんなふうに感じたんだけど、思い過ごしだったんだろうか。「いらっしゃいませー」と、何だか、当てつけに聞こえるような大きめの声で、新しいお客さんに声をかけるあの子のことが気になって、気になって、もはや数学なんかどうでもよくなっている自分に気がついた。

キリマンジャロ、そんなに好きなコーヒーでもなかったんだけど、「うん、うまいな」なんてつぶやいてみた。だけど、結局、誰も相づちを打つ人はいないから、ひとり笑いを浮かべて、無意識にカップを皿においたつもりだった。「カチャン」。そのとき、うっかり手が滑って、テーブルからカップが転がってしまった。「あ、いけねえ、ごめん」と口走ったときには、段差を転げてカップが、そんなにそっちまでいくことないじゃん、と思えるほど転がって、結局、向こうの階段のふちにあたって、やれやれ、割れてしまった。何てこった、こんなときに、どうしよう。

 

「どうかしましたか?」。きれいな声が僕の耳元で聞こえた。そのとき、僕の中で、何か、花のつぼみが開くときに音がするとすれば、きっとそんな音がするんだろうな的な音が、はじけたような気がした。とてもいい香りと、少しファンデーションが汗で浮いているのがわかるほど、近づいていた彼女の顔を見て、何かどうしようもなくいけないものを見たような感じを覚えた。「ごめん、カップ……」と言いかけたら、「割れちゃったね、大丈夫、よくあることだからね」とすぐに彼女の言葉がふさいだ。ぼくの心臓はマックス、ときめいていたよ。その子は手早く割れたカップを拾って、トレイの上に乗せて「おけがはありませんでしたか?」と聞いてきた。「あ、大丈夫です」と、冷静に答えるのが精一杯で、本当は、「君が好きになっちゃったよ」って、思わず冗談めかして言いたかったけど、学生の僕にそんな気の利いた台詞を吐けるわけもないよな。

 

コーヒーはほとんど飲み干していたから、床も汚すことはなかった。結局、カップの割れた責任も取らないで済んだから、内心ほっとしたんだけど、いつも、何となく見かけていた程度のその子が、急に僕の中で大切な存在になっている自分に、とても自分勝手な妄想屋だなと、戒めの感情を向けながら、芽生えつつある好意の感情を打ち消している自分も、どこか、情けない感じで。名残惜しいけど、会計を済まして店を出たんだけど、あれから、あの子のことが気になってしまって、逆に、コーヒーショップに行きづらくなってしまった。

 

雨が降ってきた、あたたかなある春の日に、傘を差して街の図書館に向かって歩いていると、向こうからどこかで見たような花のある雰囲気の女の子とすれ違った。「あれ、あの子だ」と直感的に振り返ったんだけど、その子はすぐ角を曲がってしまった。それがきっかけで、あの子のコーヒーショップ「G」に行ってみようと思い立って、図書館に行くのをやめてすぐにお店に歩き出した。何て動物的なんだろうと、自分につくづくあきれたけど、「悪くないぞ」と、誰かが耳元でささやいた気がしたよ。そんなの言い訳だよね。

たばこ屋のとなりに軒を並べる、そのコーヒーショップは、ちょっぴりこじんまりとした、いかにも街のコーヒー店という作りのお店だった。あれから、もう2週間も行ってないから、たまには久しぶりに、のんびりとあの場所で時間でも過ごそうかなと思って、お店のドアを開けて中に入って、いつもの窓際のコーナー席に座った。何か、少し空気が変わったような感じがしたけど、いつものように、メニューを眺めた。でも、お決まりの「本日のストレート」のページには、モカマタリとあった。「飲モカ、マッタリ」なんてくだらないだじゃれを口ずさんで、「すいませーん、お願いします」とお店の人に声をかけたんだ。さあ、当然、あの子が「はーい!」と飛んでくると思って待っていたら「お待たせいたしました、ご注文は何にいたしましょうか」と店長が注文を取りに来た。

 

「本日のモカマタリ、お願いします」と伝えたんだけど、あの子が見当たらないようなので、「あの、いつもの女の子は今日はお休みですか?」と聞いてみた。店長は、「あの子ですか、実は、もう、1週間前に辞めましたよ」とさらっと言った。何とリアクションしたらよいのかわからないほど狼狽した自分を隠すように「近頃は、長続きしない子が多いようですね、バイトは」などと、学生のくせに、年寄りじみた言葉が口をついて出てきた。そのとき、お店に対しての熱心なファンであることを印象づけるようなゼスチャーが、自分でもいやらしいなと感じてしまったんだけど、本音を言えば、あの子が辞めてしまったことに、非常に動揺していたんだ。でも、さっき、すれ違った子は、間違いなくあの子だったはずだから、今まで名前も聞かなかったけど、思い切って店長に名前を尋ねてみた。「その辞めた子の名前って、何でしたっけ?」と、いかにも物忘れしたかのように聞いてみたんだけど、店長は、そっけなく、「香織(かおり)ちゃんですよ」と答えた。そのとき、僕の中で、あのスミレの香りと耳元であの子の声が響いた。僕は声を出して「とても楽しかったよな」とつぶやいていてしまったんだけど、そんな日々は、まだ、昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。きっと初恋とはこんなものなんだな。

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