小さい頃から紅茶よりもコーヒーが好きでした。
甘いミルクの入ったコーヒーよりもブラックが好きでした。
それは単に砂糖の甘さが苦手だっただけなんだと思います。
でも小さい頃の私は同い年が甘いコーヒーを飲んでる横でブラックコーヒーを飲んでいる瞬間、皆よりちょっと大人になった気分でした。
小学校から中学校へ、そして無事に高校生となった私はアルバイトを始めることにしました。
お小遣い制度でない我が家は遊びに行く時だけ親からお金をもらう方式でした。お手伝いをしてももちろんお金は貰えませんでした。
お小遣い欲しさで高校はアルバイトを許してはくれません。なのでちょっと嘘をつきました。
「うちは一人親家庭で家計が厳しいのでアルバイトをしたいです」
嘘の様でほんとの話。
家計が厳しいのは本当でした。
親も自分のお小遣いだと言えばアルバイトを許してくれました。
初めてのアルバイト。
やるなら好きなものに囲まれて仕事をしたい。
私が好きなのは本に漫画、アニメ・・・子どもも好きだし、レストランで働くのも面白いかもと思っていた私。
そんな私を見て母が一言。
「あんた、駅前のコーヒーショップで働いてみたら?アルバイト募集してたわよ。コーヒーなら私も煎れ方教えられるし。」
そして働き始めたのはどこにでもあるチェーン店のコーヒーショップでした。
ただ、そのお店はちょっと変わっていました。
他のチェーン店は綺麗な外装で華々しいのに、私が働いている店はちょっと小汚く、昔ながらの喫茶店風でした。
チェーン店なのに制服なしでエプロンのみ。
店内はいつも清潔に、ナプキンの補充もしっかりと!
「君はいつも皆が気が付きにくいことに気が付くよね。」
そう声を掛けてくれたのは正社員で働く30代のお兄さんでした。
その人は大学生の頃からこの店で働いていたらしく、大学卒業後サラリーマンになるより喫茶店のマスターになりたいと言って、有名大学を出たにも関わらずコーヒーショップで働くちょっと変わり者さんでした。
いつもカウンターでコーヒーを8時間ずっと煎れっぱなしでレジに立つことなんて滅多にない人。
そんな人が私の研修を担当してくれた人でした。
もちろん、カウンターから出る日なんて殆どない人だからレジの打ち方なんて全然できなくて、一緒にマニュアルを見ながら操作を覚えた仲。
先輩後輩とはちょっと違う、同期とも微妙に違う、私たちはいい友達でもありました。
同じような趣味でゲームの話もアニメの話も、休憩時間が重なれば時間ぎりぎりまで話してしまうほど。
仕事が終わってもメールで話もするし、極稀に、本当に稀に勉強を教えてもらったりして、仲は良かったんです。
いつもと同じ業務をこなしていた時に、不意打ちのようなそんな言葉。
彼にとってはなんてことない言葉でも私はとても嬉しかったのです。
ちゃんと見てくれていた事に、本当に嬉しかったんです。
何気ない誉め言葉から、私は徐々に彼を意識していきました。
レジの前に立てばおろおろする彼が、一度カウンターに立つと真剣な表情でコーヒーを煎れる姿。
子どもは苦手な様で子どもが来るとカウンターからも逃げ出そうとする彼。
見れば見る程、知れば知る程、その姿に私は惹かれていきました。
それは台風が直撃した日でした。
お客さんなんて一人も来なくて、だけど出勤しなければならなくて。
とても憂鬱な気分で出勤した日でした。
出勤してみると店には私と彼の二人きり。
あれ?ほかの人たちは?
「台風だから帰ったよ。ちなみに君以外の今日シフトに入ってた人たちみんな電車動かなくて来れないって」
「まじでか」
思わず口に出してしまいました。
まさかこんな言葉を口にする日が来るなんて思ってもいませんでした。
彼は苦笑いして帰っても大丈夫だよと言ってくれました。どうせお客なんて来たくても来れないだろうしね、と。
正直帰りたかったけど、時給も発生するし、何よりも特別手当が付く。そんな理由で私は店に残りました。
今思うとなんて現金な子だったんでしょう。
そんな私を知ってか知らずか彼は笑って「なら二人で店番するか!今日は裏に回らず表で思いっきりトーク出来るぞ!」と言ってくれました。
誰もいないお店で彼と二人。
店内のBGMは外の暴風とは打って変わってゆったりとした品のいいジャズ。
彼は一言「暇だね」といい、私は「そうですね」と返しました。
しばらくどちらも動かず、ジャズに耳を傾けていました。
「ちょっと練習付き合ってもらっていい?」と、おもむろに彼はそう言うと私の返事も待たずにコーヒーを煎れ始めました。
私の働いているお店には独自の試験があり、コーヒーはその試験を合格した人しか煎れられません。
試験は何種類かあり、自分が好きな試験を期間以内なら何度も受けることができます。
彼が今煎れられるのはアメリカンをベースとしたコーヒーのみ。
練習と聞ききっと試験の事だとわかった私は黙って彼がコーヒーを煎れるのを見ていました。
布を湿らせ分量通りの豆を入れる。そこにゆっくりとお湯を回すように注ぐ彼の姿はとてもかっこよかったのを今でもありありと思い出せます。
しばらくするとコーヒー独特の香ばしい香りが漂ってきて思わず目を閉じました。
小さい頃からコーヒーが好きでした。
甘いコーヒーが苦手なのは砂糖の甘さが苦手だと思っていました。
目の前に置かれたカップはとても小さいものでした。
エスプレッソと言われるコーヒーが私の前に静かに、そこにありました。
「エスプレッソなんだけど、君確か飲めたのよね?周りに飲める奴いなくて煎れても自分で飲むしかなかったんだよ。第三者として試飲してくれないかな?」
私がエスプレッソを飲めるなんて彼には1回しか話したこと無いのに、彼は覚えてくれていました。
私はゆっくり香りを楽しみながら一口、口に含みました。
アメリカンよりも濃縮された苦みが口一杯に広がり、続いてすっと鼻を通るようなコーヒーの香りが広がります。
ああ、私が好きなのはコーヒーの味もそうだけど香りが一番好きなんだ・・・。だから甘い砂糖が入ると香りが変わるコーヒーは好きじゃなかったんだなぁ。
「美味しいです。私がエスプレッソ飲めるなんてよく覚えてましたね」
私がそういうと彼は苦笑いを一つこぼして「気になる子の好みくらいレジ打てない俺でも覚えてるよ」
思わずコーヒーを吹き出しそうになってしまった私は悪くないともいます。
だって、気になっていた人からまさかさらりとそんな言葉を言われるなんて思ってなかったんです。
更に行ってしまえば私にとって彼は初恋の人でもあるのです。
押し黙ってしまった私を見て彼は申し訳なさそうに頭をなでてくれました。
「悪い悪い。困らせる気はないよ。俺はいつも笑顔で仕事している君が好きなんだ。だからこれからも仕事仲間としてよろしくな」
そういうと彼は片付けを始めました。
いつの間にかお店を閉める時間になっていました。
その後の事はあまりよく覚えていません。
台風の中必死で帰宅したのは覚えているのに、お店を閉めている間、あの人と私は何を話したのだろう?どうやって過ごしたのだろう?
翌日、台風一過で見事な晴天とは裏腹に私はどんよりと沈んでいました。
あの時の告白に、なんで私は答えられなかったのだろう?
初めから相手にされてないと思っていたから、だから答えられなかったのだろうか?
本当は私も好きですと言いたかった、はずなのに・・・
なんで答えられなかったのだろう?そんな疑問ばかりが頭の中を閉めて、学校の授業もまともに聞けませんでした。
せめてもの救いはその日私はシフトに入っていなかった事でした。
結局、私の中での答えは出ないままでした。
憂鬱な気分のままアルバイトの日がやってきました。
今日も彼はカウンターに立ってコーヒーを煎れていました。
この間とは打って変わってお客さんでいっぱいの店内。
喫煙室はたばこの煙でいっぱいだし、禁煙席では主婦達でいっぱい。
サービスで置いてある新聞紙は一つも残ってないし、裏に回れば洗い物で溢れている。
ガムシロップもこの間開けたばかりのパックがもう空になりかけていた。
ああ、私が彼に返事をしなくても時間は流れているんだなぁ
思わず泣きたくなって、裏で洗い物をしてきますと他のスタッフに声を掛け、彼を見ないように裏に回りました。
でも不思議と涙は出ませんでした。
もくもくと洗い物をこなしていく私。
もくもくとコーヒーを煎れている彼。
同じお店に居るはずなのに、あの日と違って彼との距離はとても遠く感じました。
結局、その日の仕事は洗い物で終わり、彼とも挨拶を交わしただけで話をすることはありませんでした。
次のバイトの日、彼が試験合格した事を知りました。
あの時煎れてくれたエスプレッソは店長に認められたのです。
うつうつとしていた私の心が一瞬晴れやかになりました。
まるで自分の事のように嬉しい。
こんな事は初めてでした。
その日、彼はシフトでお休みでした。
私は彼にプレゼントを贈ろうかと思いました。
学生のアルバイトなので時給は低くてあまりいいものは買えないだろうけど、それでも何かを贈りたいと思ったのです。
次の休みの日、私はコーヒーミルを購入しました。
骨董品市で売っていた物でしたがとてもきれいで今もちゃんと使えると聞いて購入しました。
市で買ったものなのでラッピングなんてしてくれませんでした。
男性に渡しても大丈夫そうな包装紙とリボンを買い自分でラッピングしました。
バイトの日、休日で朝からシフトに入っていた私は同じ時間に勤務に入っている彼にあの告白の日以来初めてちゃんと声を掛けました。
休憩時間に、話があると・・・
お昼込みの休憩時間はあっという間にやってきました。
彼と同じ部屋で以前と変わらず一緒にお弁当を食べました。
胸がどきどきと高鳴ってました。
お弁当箱をしまうのと同時にプレゼントを出しました。
「試験合格、おめでとうございます。これ、よかったら使ってください」
告白の返事は、出来ませんでした。
それでも彼は嬉しそうにプレゼントを受け取ってくれました。
高校1年から始めたアルバイトは、3年間ずっと同じ店で続けました。
ただ、彼とは結局恋人にはなりませんでした。
それは私が告白の答えを出さなかったからかもしれません。
もしかしたら、別の理由かもしれません。
でもそれは今となってもわかりません。
今でもふとあの頃の思い出がよみがえります。凝縮されたあのエスプレッソが私の初恋の味となりました。
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