コーヒー器具万華鏡

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コーヒーが好きだ。子どもの頃は苦くて黒くてこんなのは飲み物じゃない!などと思っていた。高校時代、女子校の空気に馴染めず通学の電車ではいつも下を向いて本を読んでいた。家に帰りたくない日もあって、そんな時は駅の近くの喫茶店に入ってまた本を読み続けた。その喫茶店は商店街の中にあって、タバコのにおいと常連さん達があふれていたのだけれど、物静かなマスターが淹れるコーヒーの香りがいつも漂っていた。サイフォンを使って淹れられるコーヒー。

 

マスターの手つきは何だか手品のそれのようで、魅せられた。大嫌いな化学の実験器具のようにも見えた。喫茶店に行き始めた頃は紅茶やメロンソーダを頼んでいた。でもそんな自分がひどく惨めな子どものような気がして、ある日思い切って苦手だったはずのコーヒーを頼んでみたのだ。マスターが目の前でこれまた手品師のような手つきでサイフォンからカップに注いでくれた。恐る恐る飲んでみる。するとそれは、今までのコーヒーはコーヒーではなかった!と思うほど、美味な液体だったのだ。

 

クラスメイト達がカラオケや男の子の話に明け暮れている頃、喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読む私、最高だと思った。そう思いつつ、どこか苦い気持ちがあったのだけれど。それ以来、コーヒーがいちばん好きな飲み物だ。もちろん、アルコールは別として。
短大時代にはいわゆる有名チェーンカフェでアルバイトした。短大に入ったからといって簡単に周りに馴染めるわけでなし、なんとなく周りに合わせる技術は身についたものの、大学にいるのが苦痛で講義が終わるとバイトに明け暮れた。

 

早朝、オープン作業をしてから大学に向かう日もあった。シフトに入り、あのエプロンをきゅっと身につけると、何故か満面の笑みを浮かべてぺらぺらと喋れるようになった。自分でも、びっくりするぐらいに。魔法のエプロンか何かかと思ったぐらいだ。そのバイト先で、一風変わった友人ができた。酒とタバコと自炊が大好きな大学生。下町の古くて狭い部屋に一人暮らしをしていて、毎日浴びるほど酒を飲んでいた。彼女も、あの魔法のエプロンをつけている間は眩しいほどににこやかで、エプロンをはずすとどこかうらぶれた雰囲気になる、そんな人だった。私は相変わらずの実家暮らしだったので、バイト上がりには彼女のところによく遊びに行った。彼女は家があるのに、駅前広場や公園で飲むのが大好きな人で、私もそれに付き合い、そしてすっかり慣れた。真夏も真冬も、外で飲む。

 

コンビニで買った缶ビールの空き缶がどんどん積み上がり、そのうちの1缶には吸い殻が溢れかえる。彼女がひっきりなしに吸うタバコの煙はいつも空に溶けていった。そしてそんな飲み会のシメはコーヒー。コーヒーを飲む段になると、ようやく彼女の家に行く。彼女のにおいが染み付いた部屋。いつも手早くお湯を沸かし、手動のミルで豆を挽き、ハリオのドリッパーでコーヒーを2人分淹れてくれた。螺旋状の溝のついた透明なドリッパー、コーヒーの湯気、無口な彼女。人に淹れてもらうコーヒーは、得てしておいしいのだ、それがプロでも素人でも。そのうち彼女は大失恋をして、全てが嫌になったとみえ、大学卒業を機にバイトも辞めて実家に帰っていった。家業を継いだと聞いている。今もタバコを吸いながら、ハリオのドリッパーでコーヒーを淹れているのだろう。
短大を出るといわゆる中小企業で事務職をするようになった。相変わらず人付き合いはうまくなく、だからと言って仕事が成立しないほどでもなく、その頃には毎夜のようにライブハウスに入り浸るようになった。別に有名バンドを聞きに行くわけではない。アマチュアバンドで、しかもチケットノルマもギリギリ果たせているのかいないのか、というバンドばかり聞いた。もちろん、ライブハウスを満員にするバンドもいくつかはあったけれど。バンドによってはライブ後の打ち上げに客も気安く参加できたので、1人になるのが嫌な時、気が向けば行っていた。そのうち、あるバンドの男と付き合うようになった。歌に命かけてる、と言うくせにタバコを吸う、そしてひどく浮気性の男だった。その頃には私も一人暮らしを始めていたのだけれど、その男の家に入り浸りになるまで時間はかからなかった。散らかり放題の部屋を片付け、何から何まで世話を焼く、そんな毎日が普通になった。付き合うと、何故かいつも一方的に尽くしてしまう。男はデビューを夢見つつ、そんなことは現実にはならなくて、バイトをしつつ、路上ライブやライブハウスへの出演を続けていた。自意識の塊のような男。過去の恋、今の恋、浮気の恋、何でもかんでも歌にしていた。何故惹かれたのか、よく分からない。その男もコーヒーが好きで、家ではいつもフレンチプレスで淹れていた。そろりそろりとお湯を注ぎ、4分待つ間、ぼーっとした顔で黙ってタバコをふかしている。4分経つと、静かにそっとプレスする、その手つきを見ているのが好きだった。男の何度目かの浮気を知り、鍵を返すと伝えたのも、男がコーヒーを淹れている時だった。その時は、男は4分経っても動かず、そのまま何も言わずタバコをふかし続けていた。

 

結局私はそのコーヒーを飲むことなく、部屋を出て行った。プレスされないままのコーヒーの隣に鍵を置いて。フレンチプレスで淹れたコーヒーは、苦味もコクも油も全部がないまぜになっている。おいしいけれど、カップの底にはいつもあの澱が残るのだ。
何だか音楽にも飽きてきて、ライブハウス通いのペースが減ってきた頃、物静かな雰囲気のバンドに目が止まった。歌っているのは、同じく物静かな雰囲気の男。明るい言葉で綴られた歌もその男が歌うと何だか全て寒々して寂しく聞こえた。それほど客が入るバンドではなかったから、何度か聞きに行くうちに顔見知りになった。そのうち、その男と付き合うようになった。タバコは吸わず、酒も飲まず、ライブハウスのステージの上でもステージを下りてもいつも静かな男だった。バンドでデビューしたいなんて夢はもっておらず、音楽は趣味だと割り切って、平日は会社勤めをしていた。絵で描いたようなサラリーマン。ノー残業デイだとか言って、水曜日はバンド仲間とスタジオ練習に行くことが多かった。給料を貯めてはギターや機材を買い、自主制作の音源を作っていた。その男もコーヒーが好きで、親しくなったきっかけもコーヒーだった。私はライブハウスに行く頻度が減った代わりに一人旅をすることが増えていた。夜行バスに乗って、旅先について、安宿かユースホステルに泊まって、また夜行バスで帰ってくる。そんな一人旅。ある時、顔なじみのライブハウススタッフに旅行先で買ったコーヒー豆を私が差し入れているところを彼が見たのだ。

 

その店のコーヒー豆が自分も好きで、店の近くに住む親戚にわざわざ買ってもらって送ってもらうのだと言っていた。彼が使うのはカリタのドリッパー。アンティークショップで見つけたと言うミルで豆を挽き、カリタのドリッパーで、静かに密やかにコーヒーを淹れた。これで淹れるとすっきりした仕上がりで、でもコクがある、それが口癖だった。確かにあの男にそのドリッパーはよく似合っていたと思う。

 
コーヒー器具であふれた合羽橋のキッチン用品店の中で1つ1つの器具を手に取る度に、あの人たちを思い出す。コーヒーの香りやコーヒー店と、何か大切な思い出が結びついている人もいるかもしれないけれど、私にとってはそれはコーヒー器具なのだ。家にはその時々の付き合いを映したコーヒー器具が溢れかえっている。それなのに今日はケメックスを買いに来てしまった。今の男とその母、私の義母でもあるのだが、はケメックスで淹れたコーヒーが好きだから。男がずっと愛用してきたケメックスを私の不注意で割ってしまい、代わりを買いに来た。

 

昔からしょっちゅう食器やら何やら割っているので自分でも呆れてしまう。蚤の市で見つけたカップとソーサーをその帰り道に割った時は、自分がほとほと嫌になった。大事だ大事だと思うくせに結局自分は雑なのだ。初めて今の男の家でコーヒーを淹れてもらった時は驚いた。フィルターがとんでもなく大きく奇怪な形をしていたから。それでも、いざ飲んでみるとすぐに虜になった。風味が向こうから迫ってくる、と男は表現したのだが、まさにそれだと思った。初めて男の母に会った時も、母がケメックスでコーヒーを淹れてくれたのだが、風味がガツンとくるからいいのよね、と言う母を見て、ただシンプルに親子だなと思った。

 
ライブハウスにはもうすっかり行かなくなった。その狭い世界で繰り広げられる人間関係にうんざりしたというのが理由だと思う。音楽に飽きたというよりも。バンドメンバーと客、ライブハウスのスタッフ、その中で好いた好かれたとったとられた。もちろん堅実な付き合いを育む人もいたのだけれど、そうでない人が多かったのだ。馴染めなかった高校、短大。あんなのは馬鹿馬鹿しい、私は違う、と思って振舞っていた私も、本当はあの女の子達と同じようにしていたかったのだ。馬鹿馬鹿しい話に熱中し、馬鹿馬鹿しい恋をして、馬鹿馬鹿しい女の友情に溺れたかった。それができなかった私は、ライブハウスというコミュニティの中でそれを求めた。でも、結局それは得られないと分かった。今ではかつて通いつめたライブハウスがある駅に降りても、足がそちらに向くこともない。

 

そして残ったのは、たくさんのコーヒー器具。食器棚の奥に詰め込まれているコーヒー器具。今はケメックスしか使わないので、他の器具はもう長らく使っていない。それでも、しまいこまれている器具を見ても今の男は、捨てろとは言わない。たまにはそっちで淹れてみようか、とも言わない。器具はただそこにあるだけ。私もそれでいいと思っている。ただそこにあるだけ、いるだけ、そこに置いておくだけ、という存在には大きな意味があるのだ。そんなことを考えながら新品のケメックスを眺める。今夜は、男にこれでコーヒーを淹れてもらおう。風味が迫ってくる、あのコーヒーを。

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