「かつて、コーヒーは毒だと言われたことがあるそうだよ」
コーヒーカップをソーサーの上に戻すと、硬い音がする。遅れて、ふわりと香りが漂った。
淀みなく言葉にしたものの、付け焼き刃の豆知識だ。僅か三十分前にスマホから得た程度。けれども向かいに座る彼女は、真摯な顔で頷いた。
「私、こういうコーヒーは美味しいと思いますけど、缶コーヒーって苦手なんですよ。甘味が強かったり、苦かったり。あれを子供の頃に飲んでいたら、毒って思うかもしれませんねえ」
「……今の話は、500年くらい前のことだからね」
「あ、そうなんですか?」
恋は盲目と言ったもので、はにかむ彼女の笑顔がただただ眩しい。
始まりは、しがない大学院生に成りたての頃だった。学部生の頃に所属していたサークルに、ちょっとした所用ができたことで、僕は彼女と出会った。
当時の僕は「学生の身分とは言え、『引退したOBが我が物顔で現れる』などという、唾棄すべきことをする人間には絶対にならない。ましてや若くて可愛い現役生にちょっかいをかけるなんて、男としてあるまじき行為だ」と固く決意していた。おおよそ、実体験に基づく理念である。この理論に基づいて、他の生活はほとんど変わり映えしないにも関わらず、四年間入り浸った部室には一切足向けずに半年ほど過ごしていた。
その決意が氷解するまで、10分もかからなかったように思う。
来訪する旨を事前に連絡していたとは言え、現役の学部生たちは、見知らぬOBに対して丁寧にもてなしてくれた。あろうことか、「当時の話、聞かせてください!」という社交辞令まで差し出す始末である。言い訳ではあるが、当時、教授や博士課程の先輩たちから、学業的な意味で滅多打ちにされていた僕の心は豆腐のようにもろかった。上の者として仰がれる空気に晒された僕は「じゃ、少しならいいかな」なんて偉そうに呟き、室内のソファに腰を下ろしたのだった。
身分と財力は彼らとほとんど変わらないものの、僕はここぞとばかりに先輩風を吹かす。座ると同時に「じゃあ、飲み物でも買ってきてくれる?」とお札を渡した。爽やかに応じる彼らが買ってきたのは、大半が刺激的な炭酸飲料だ。その中に一本だけ、見慣れぬブラックコーヒーがあった。一般的に、このような場面では同じような系統で揃える方が無難だ。二本ずつ、あるいは全種類お茶とすれば揉めづらい。誰かの嗜好だろうか。それとも「良い年してジュースとか、太りますよ」という僕への気遣いだろうか。
迷う僕の胸中を見透かしたのか、彼らは礼儀正しく「先輩からどうぞ選んでください」と飲み物の群れを指し示す。僕は「ありがとう、お釣りは良いから」と言いつつ、鷹揚に構えたふりをしてコーヒーに手を伸ばす。正直に言えば酸味が強く、好みの味ではなかった。
だが、それが人生最大の好機だったと思っている。
「コーヒー、お好きなんですか?」
時間にすると45分、後輩たちとの交流を終えて部屋を辞した後のことだ。僕は道端に突っ立って、さて、研究室に行って心を千切りにされるか、自室の温かなベッドで魂の安息を取るべきか、と思案していたところだった。
ぎょっとして振り返れば、一人の女性が朗らかな笑みを浮かべて立っている。先ほどの団らんの中で、控え目に笑っていた女性だ。最初に飲み物を買いにいくメンバーの一人でもあり、その小柄な肩先に触れるか触れないかの黒髪が印象的な子だった。
僕は激しく動揺した。サークルの現役生たちは他にいない。普通なら「あのOB、空気読んで早く帰れよな」なんて悪口大会が開催されているはずなのだ。その輪の中には彼女もいて、曖昧に笑っているに違いない。
だが、現実問題として、彼女はそこにいた。
「ジュース、ごちそうさまでした」
「いや、別に」
律儀に頭を下げる彼女に、一切気の利かない返事をしてから、僕の頭はようやくフル回転を始める。過電流で発火してもおかしくないほどに。
「あ、えっと……コーヒーは好きだよ。なぜ?」
「さっき、一本だけあったコーヒーを選んでましたよね」
「うん。まあ。炭酸はちょっときつくてね。年かな」
これは嘘だ。大嘘だ。研究内容がまとまらず煮え切った夜中や明け方に、憂さを晴らさんばかりに炭酸飲料を一気飲みする。そしてげっぷをだしてせいせいとする。口が裂けても言えないその真実は、硬く蓋をして心の中に押し隠した。
「こんなことを言うのも変ですけど、あれ、おいしかったですか?」
「いや、うん……まあ、悪くはないと思う。僕の好みではなかったけれどね」
「そうですよね!」
恐る恐るの返答に、なぜか彼女は喜色満面の顔になる。
「みんな、このコーヒーならいいだろとか、先輩飲まないなら俺がのむーとか言ってたんです。私はちょっと、酸味がきつくて!」
「ああ、分かるよ。まず舌先に酸味が来ると感じたね」
「あれが苦手ということは、先輩も、深煎り派ですね?」
「まあ、そうかな」
「でしたら、是非このお店に行ってみてください」
彼女が左肩にさげていたトートバッグは大きい。その中を引っ搔き回していたかと思うと、僕の眼前に小さなカードが突き付けられた。見知らぬ横文字。電話番号と住所。裏側には「cofe」をモチーフにしたと思われるデザインのイラストがある。
「そのお店、とっても美味しいコーヒーが飲めるんです。フレンチの煎り方なので、きっと先輩のお口にも合うと思います」
「ここからだと、徒歩10分というところだね」
言いたいことは色々あったものの、相手の勢いに飲まれた僕はそんなことしか言えなかった。住所は今いる大学のキャンパスから徒歩圏内のようだったものの、全く見た記憶の無い店だ。
「はい。でも、うちの大学も含めて、若い人はあんまり来ないんですよ」
「なるほど。君のお気に入りのお店ということだ。……でも、なぜ僕に?」
「あのコーヒーが苦手な人、なかなかいなかったんです。香料が強くて、飲みやすいとは思うんですけど、酸味を感じちゃうともうダメ!って感じです。私はこのお店のコーヒーが今一番大好きで、同じ感想を持った先輩にはぜひ味わって欲しいなって思いました!」
「それで、わざわざ名刺を用意してまで?」
「お店のマスターから何枚か頂いてきたんですよ」
彼女はなぜか自信満々に宣言した。
「だから、行ってみてくださいね。私の大好きなお店ですから」
絵に描いたように可愛らしいと感じる女性から、こんな言葉を面と向かって言われて、その場で断るような無粋なことを言う男がいたら、お目にかかりたいものだ。
だが、実際に僕がその店に足を踏み入れたのは、それから実に一週間後のことだった。普通なら翌日、遅くとも三日以内に行くだろう。遠方地にあるわけでもないし、大学に来ていないわけではない。学部生の教室と院生の研究室棟はそんなに離れているわけではないし、正門は同じだ。僕は、いつ何時、「先輩、行ってくれないんですね」という彼女の声が後ろから飛んでくるだろうかと気が気ではなかった。気にかけているなら、すぐに行けば良い。そして、時間が経てば経つほど行きづらくなるのも自明の理だ。
だからその日、僕がその店に足を向けることができたのは、奇跡に近いといっても良かった。
簡単に言えばストレスが溜まっていた。僕の不勉強さや視野狭窄な考えを指摘されることは慣れている。事実だと反省しきりなことも多い。だがその日、僕の前に立ちはだかったとある先輩は、完全に僕のことを馬鹿にするためにそこにいた。「お前みたいな人間、ろくな研究できねえんだよ」という言葉には、理論もなにもない。単なる罵倒であり、侮辱だった。
僕は歯を食いしばってその場を後にした。他大から入院してきた同級生の不安そうな視線を振り切り、叫び出したい言葉を押し殺して外に飛び出た。外に出たら出たで、眩しい日差しに出迎えられ、腹立ちまぎれにその場から駆け出してしまう。周りから見れば、完全に頭のおかしい男だっただろう。何人もの人が狂人めいた僕の姿を指さしていたような気がしたが、その事実すら僕の足を止めることはできなかった。
やがて、汗だくの上、見知らぬ住宅地の中にぽつねんと立つ僕がいた。怒りと酸欠から息が完全に上がっている。だが、久々の全力疾走は、負の感情すら取り去ったらしく、いつしか「バカバカしい」という気持ちにすり替わっていた。そうなると途端に視界がクリアになる。はて、ここはどこだろうと辺りを見回すと、どこかで見たと思わせる文字列が目に飛び込む。何度もカードを見返したのだから、今更記憶をひねり出すもない。彼女いちおしの店だった。
衝動的に辿り着いたことで、僕の心も軽くなったらしい。普段ならば物怖じしてしまいそうな重たいガラス扉を押し開けると、一瞬にして全身を包み込むコーヒーの香りに包まれた。からんころんと頭上で鐘が鳴り、コップを洗っていた店長らしい男性が顔をあげる。
「お好きな席にどうぞ」
「どうも」
店長の渋い声は、まさにレトロな内装に打ってつけだった。短い言葉には愛想笑いすらない。
店内には誰もいない。カウンター席が三つ。四人掛けのテーブルが三つ。瀟洒な刺繍がほどこされたテーブルクロスの白と、テーブルセットの艶のある黒檀(こくたん)色がオセロのように際立っている。ふらりと気の向くまま足を進めて、店長の作業スペースとはやや離れた、カウンターの端に落ち着くことにした。
コーヒーについては、知識が左程あるわけでもないが、彼女のあの表情を思い出す度に胸がざわざわしたので、一通りのことは調べていた。雑誌風の写真やイラストの多い入門書も一冊、図書館から借りたままだ。だから、メニューにある言葉の内容はある程度は理解できたし、この店のコンセプトは一瞬で把握できた。
「ブレンドを。酸味より、深いのが好きです」
「少々お待ちください」
家族からお前は持って回って考えすぎだと言われる僕でも、『名称にこだわらず、お好みの味わいをお教えください』と書かれたメニューを見れば、それに従うというものだ。
出てきたコーヒーは、見た目は想像のものと相違ない。つるんと丸いコーヒーカップに注がれた黒い液体は、ほっとするような香りを立てている。コーヒー豆の缶を開けた時の感動に似ていた。そして、ここにきて「恐らく彼女もこの匂いを楽しむに違いない」と思い至って、思わず胸いっぱいに空気を吸ってしまった。
「砂糖もミルクも、こだわらずお好きにどうぞ」
儀式めいたことをする僕に不愉快な顔もせず、店長はそっとミルクと砂糖のポットを置く。所作こそ丁寧なものの、必要がなければ脇に捨て置いてくれと言わんばかりだった。
「作法などは、ないんですね」
「何を美味しいと思うかは、人それぞれ違いますからね。私は、難しいことを考えずに楽しんで貰えれば、それが一番だと思っています」
僕はまた、黒い世界に目を落とす。無遠慮にスプーンを突っ込むと、小さな波が立つ。
二人しかいない店内では、店長が作業する微かな音だけが続いている。かちゃり、とソーサーとカップが奏でる心地よい音を耳にしながら、僕はまず、コーヒーを口に含んだ。一口の苦みが喉に広がり、その香りが鼻に抜けていく。そして、思うがままに砂糖とミルクを入れて、誰の目も気にせずに、濃厚な甘味を堪能した。そう言えば、今日は朝からなにも口にしていなかったと思い出す。
「お好みの味になりましたか」
「さっき、言われたんですよ」
立ち上がって財布を取り出しながら、僕は自然と語っていた。
「『コーヒーにミルクと砂糖をいれるような甘ちゃんに、まともな研究ができると思うな』って。僕、それが頭に来て飛び出してきちゃったんですけど、あっちは二日くらい寝てなかったっぽいんで、もう不問にしようと思います。こんなに美味しいものを知らないなんて、馬鹿だと思いますし」
「お口にあったようで」
「御馳走様でした」
鈍い銀のトレイに小銭を並べる。ワンコインではきかないコーヒーの代金。バイトしながらの貧乏大学院生にとっては重たいものだが、決してもったいないとは思わない。古いレジスターのキャッシャーが開く、ちん、という音を耳にしながら、僕は思いきって店長の顔を見据えた。
「不躾ついでに、一つお伺いしたいんですが」
「はい」
「こちらのお店のこと、とある大学生の女性から伺ったんですが。小柄で、肩先くらいまでの黒髪で。彼女は、よく来ますか?」
その時店長がなんと答えて、僕がどう行動したのかは、語るまでもないだろう。数週間の後、僕のバイト代の一部は「コーヒー代金」と呼ばれるようになった。やがて、「コーヒー代金(デート用)」として確保されるようになったのは、それから実に八か月後のことだ。
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