昭和の喫茶店「タイム」で

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高校生のころ 私はとてもまじめだった。
校則というフィールドがあるとするならば、その外側に広いのりしろを設けるくらい無難に無難に、学生生活を送るような生徒だった。

 

私は、真面目だったけど、決してお堅い性格ではなかった。
中学生の頃には、彼もできて、高校生の頃もお付き合いは続いていた。
なぜなら、校則には「男女交際禁止」の記載はなかったからだ。

 

こんな校則があった。
飲食店は保護者同伴とする。しかし喫茶店への入店は禁止とする
今思うと、なぜ喫茶店はダメなのか不思議に思える校則だけど、この一文が生徒手帳に記載されていたことを私は強烈に覚えている。

 

卒業まで、校則はきっちり守った。
別に苦でもなく、逆に何も後ろめたいことのないことが、気楽にさえ感じていた。
それよりも、私の学校は、とんと田舎にあって喫茶店なんてどこにあるのだろうと思っていたくらいだった。

ある日、気になる出来事があった。
高校3年生の時、放課後のある男子学生の一言。
「うんじゃあ、後でタイムで」

ちょっと、わくわくした。
何だろう「タイム」って。
田んぼの中にある学校で、その風景に似つかわしくない、ちょっとハイカラな響きのある言葉、会話。

思わず聞いた「タイムって何?」

答えは、喫茶店だった。
私の好奇心のシャッターは閉められた。
「喫茶店への入店は禁止とする」
この一文は、この時から強烈だったのかもしれない。

タイムのことはそれから聞くこともなく、いつの間にかすっかり忘れていた。
時は三月になり、卒業の日を迎えた。
卒業式のあと、クラスの男子に呼ばれた。
終わってから「タイムに来ない?」
あまり話をしたことのない男子だったが、「タイム」に心をつかまれた。
卒業式が終わって、シャッターの開けられた瞬間だった。

私の学生時代とは、まだ年号が「S」、昭和の終わりのころのこと。
「喫茶店」はそれよりももう少し古い時代に、フォークソングや歌謡曲で、やたらと歌詞にのった定番で、出会いが始まるキラキラスポットの代名詞のようなものだった。

 

卒業式の後、生まれて初めての喫茶店に足を踏み入れた。
魚屋の横の細い階段を上がる。
少し重たい木の扉。
開けると、すぐに感じた。
「ああ、喫茶店だ」
強烈という言葉は似つかわしくないけれど、コーヒーの香りしかしない空間だった。

想像通り。

カフェでもなく、レストランでもない。
紛れもなく、喫茶店。

同級生が数人、すでにカウンターを占領していた。
手招きをされて、そばに行く。
私を誘ってくれた男子の横に座った。
別に意識する相手でもないのに、このシチュエーションに少しドキドキして、悲鳴を上げそうになった。
私、なんだか、「・・・っぽい」
平成の今の時代なら、特に新鮮さもないようなこのシチュエーションも、当時はテレビドラマや映画の世界だった。
そんな中にいる「ヒロインっぽい」

とりあえず、数人が集まって、卒業式の打ち上げのような様子になっていた。
普段、あまり付き合いのない人たちに、なぜ自分が呼ばれたのかよくわからない状況だったが、卒業式後のちょっと違うテンションで、何でもありの雰囲気だった。

メニューが回ってきた。
レストランでみるような大きな分厚いメニューではなく、小さなものだった。
そこには、コーヒーのいろんな種類が書かれてあった。
良く分からないので、一番上に書かれている「ブレンド」を頼んだ。
だいたい、こういう分からない時はトップのメニューを選ぶと間違いない。
隣に座っていた男子は「モカ」を頼んでいた。

カウンターの中に、男性と女性の二人がいて、手際よくコーヒーを作り始めた。
二人は皆からマスター、ママさんと呼ばれていた。
みんなと仲良くおしゃべりをして、気さくで温かい感じのする二人だった。

店内の片隅には赤い電話ボックスがあり、中には長居できるように椅子まである。
席は、カウンターの7席の他に、インベーダーゲームのついたテーブル、少し破れたレザーのソファー。
何もかも「・・・っぽい」
店内を見渡している間に、コーヒーが目の前に出された。

隣の男子が、私を見て言った。
「ここ初めてだよね。ここのコーヒーすごく美味しいんだよ」

私は、家以外でコーヒーを飲んだことはなく、しかも家ではインスタントコーヒーばかりだった。
ソーサー付きのしゃれたカップに注がれて、ミルクは小さなポットに入っていた。
「初めて」と悟られたくなくて、平静を装っていたが、実はその空間にかなり感激していた。

私はたっぷりの砂糖を入れて混ぜ、ミルクを入れた。
コーヒーの香りが、ふっと気を失うくらい気持ちをくすぐった。
コーヒーにリラックス効果があるというのを、人生の中で本当に実感したのはこの時だったかもしれない。
砂糖をたっぷりと入れてはいたが、少しの酸味と苦みが口の中を占領した。

隣の男子が笑っていた。
きっと陶酔したような表情だったのだろう。
彼は、何も入れずブラックで飲んでいた。
「きっと、この人背伸びしているのよ」
私は、口には出さなかったが内心思っていた。
美味しいね、というと自分が淹れたわけでもないのに、満足気に笑みを浮かべたのを覚えている。

 

その日から時々、私はそのタイムに通い始めた。
卒業後は、一か月もしないうちに、皆それぞれの進路で地元を離れることになる。
同級生の溜まり場だったこのお店に行けば、誰かがいた。
誰もいなくても、そのうち誰かがやってくる、そんな場所だった。
そして、何よりも私の大のお気に入りの場所になっていた。

数日通っている間に、ママさんから色々なコーヒーを教えてもらった。
私は、酸味の少ないキリマンジャロが大好きになって、カウンターに座ると「コーヒーをください」というだけで、キリマンジャロが出てくるようになった。
今考えると、ちょっとおやじっぽいが、当時私はひそかにそれにはまっていた。

タイムには、男子の方がよく来ていた。
バイクに乗る人が多くて、身軽だったからだと思う。
学生時代、あまり会話をしなかった人たちと、ここにきていろんな話をした。

ここが溜まり場だったわけだが、誰も校則違反で「おとがめ」を受けることはなかった。
それならと早くからここに来ればよかった、と思った。

ある日、最初に私を誘ってくれた男子がやってきた。
「ママさんに電話したら、来てるっていうから」
と言った。
特に、気にも留めずに、そうなんだと思った。
私も誰かがいる、誰かが来るのを期待して通っているのだから、同じクチだと思った。

しばらく会話をしていると、これから少し出かけないかと誘われた。
私はここにいるのが好きで、そのために来ているから、まったく気が乗らなかった。

私は卒業間近になった2月、別々の土地へ進路を選んだことをきっかけに、お付き合いしていた彼とお別れしていたが、その男子には、付き合っている同級生がいるという噂を聞いていた。

こういうことは校則を破ることよりも、悪いことだと思っていた。

「今日は、もっといろいろな友達と話がしたいから、ここにいたいな」
上手な返し方だったか分からないけど、その時そんな風に言って断った。

私の前にキリマンジャロ、
彼の前にモカが出された。
私は、スティックシュガーを一本入れるとかき混ぜて、まだくるくると渦を巻いているうちにミルクを入れた。
そうして ミルクの白い渦が広がっていくのを見るのが好きだった。

彼は、ブラックのコーヒーを口に含むと
今日のコーヒーは苦いと言った。

しばらくすると、彼は帰って行った。
ママさんが、帰った後に
「けなげね」
ぼそっと言った。

マスターやママさんは、長いことみんなとお付き合いがあって、それぞれのキャラクターを把握しているようだった。
カウンターの中で色々な話を聞いて、感じることもあるはず。
あからさまに相談を持ち掛けなくても、色々なことを知っているみたいだった。
きっと、大人のカン。

それから、彼は少しよそよそしくなった。
時々、お店では会うけど、席は一つ空けて座る。
彼女のいる人、私はれでいいと思っていた。

ある日、ママさんが「今日のおすすめコーヒー」を出してくれた。
美味しかった。
「これは何ですか?」
「モカよ」
これまで、無意識のうちに避けていたモカ。
きっと、意識していたんだろうな。
共通の好みを持ちたくなかったのかもしれない。

「彼はけなげに、想っていたと思うのよ」
ママさんが話をしてくれた。
「彼はあなたに好意を持っていたけど、相手がいると聞いて諦めていたのよ。彼がお付き合いしていた彼女は、それを知った上でお付き合いを申し込んだけど、ひと月ももたなかったみたい。あなたをここに誘うのも、ずいぶん前から決めていて、でもなかなか言い出せなかったのよ。卒業式の日にあなたが来た時は私、よくやった!って拍手しそうになったんだから・・・」

私は、同級生の間では小学生のころから、大人びて見られていた。
校則を忠実に守る性格は、逆にクールに思われていたようで、後になって近寄り難い存在だったこともタイムで同級生から聞いた。
喫茶店には行かなくても、いろんなことを知っているように思われていたらしく、彼は合わせようと無理して、コーヒー通を気取っていたらしい。
私がたくさんの砂糖とミルクを入れる姿を見て、実はママさんも笑っていたと聞かされた。

一緒なんだね。
本当は、一緒だったんだね。

翌日から、彼に会えるまで毎日タイムに通った。
4日後、いつもと変わらない様子でやってきた彼に、ママさんがコーヒーを淹れた。
今日は、彼女の好きなキリマンジャロを飲んでみない?
そういってコーヒーを出すママさんを不思議そうに彼は見ていた。
「彼女?」

コーヒーを飲んだら、ちょっと出かけない?
私から誘ってみると、彼はびっくりしたような表情をした後、すぐに一変して、笑顔でうなずいてくれた。

私たち、一緒なんだって。
二人ともコーヒー通でもないし、気持ちも一緒だったんだって。
何もかも知っているママさんが教えてくれたよ。

あれから25年。
私には、二人の息子がいる。
校則にそんな文字は一つもないのに、喫茶店なんて行ったこともない、交際歴もない。
さらに、二重ののりしろを付けた校則マニアのような息子たち。
間違いなく、私の息子だ。

毎朝、我が家はコーヒーの香りが広がっている。
主人が毎朝、キリマンジャロとモカを交互に淹れてくれる。

息子たちもコーヒーの味は覚えた。

あとは、あなたたちの両親のような素敵な恋の味を覚えてほしい。

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