背伸びをしたコーヒーの味

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社会人になってすぐの時期に背伸びをした恋愛をしていた。
私はデザイナーとして就職をしたのだが、仕事の時間以外にも自分の知識やテクニックを磨こうと勉強をしていた。
刺激を得なきゃ・何かをインプットしなきゃと強迫観念に近いものがあったと思う。

そんな時に、出会ったのは私の職場によく来るデザイナーの30歳の男性だった。
業務委託で私の職場から仕事を請けていた彼は、社会人になったばかりの見習いデザイナーの私から見るととても洗練された大人の男性だった。

ある時、仕事帰りに本屋で色々な書籍や雑誌を探しているところその彼にばったりと遭遇した。私は恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが交じり合って変な表情になっていたのだろう、彼は職場では見せないような笑顔を見せ、「何探してるの?」と私に話しかけてくれたのだ。

それから、彼のオススメの本を教えてもらいながら本屋を一緒に巡ったのだが、いつも見せる硬い表情とは違い、くだけた感じで話しかけてくれることが嬉しかった。
本屋を出て、「少しお茶しようか」と彼は私を喫茶店に誘ってくれた。私がいつも行くチェーン店のカフェなどではなく、昔ながらの静かな喫茶店。

彼はメニューも見ずコーヒーをすぐさま頼んだのだが、いかんせん私はコーヒーが全くわからない。いつもカフェオレや甘い飲みものを頼んでいるのだが、この喫茶店にはそんな飲み物が見当たらない。

私が戸惑っていると、彼は笑いながら「薄いのと濃いのどっちが好き?」と聞いてくれたので、私は「薄いのがいいです…」と答えた。彼がお店の方に私のぶんのコーヒーを頼んでくれ、2人でコーヒーを飲みながら、仕事のことについて話をした。

彼と話をしていたのだが、出てきたコーヒーが私には苦かった。砂糖やミルクを入れたいけれど、そんなものを入れると彼に子どもっぽいと思われるかもしれないし、この喫茶店ではかっこ悪いことのような気もして入れれなかった。

コーヒーが苦いという感想しか持てず、その時は彼とお別れをして帰宅したのだが、帰宅途中にコンビニでカフェオレを買って飲むと、甘くて美味しかった。喫茶店のコーヒーの方がしっかりとコーヒーの香り・コクがあったのだが、私にはコンビニで100円とちょっとで買える甘い乳製品と書かれたカフェオレの方が馴染みのあるコーヒーだった。

その日以降、彼と職場以外で会うことが多くなっていき、喫茶店でコーヒーを飲みながら彼のデザイン論を聞くと言うのが恒例になっていた。

私は自分の未熟さや知識のなさが恥ずかしく一生懸命勉強をしたり、彼の話に質問をしたりしていたのだが、その質問も彼にとっては幼く、くだらないものばかりだったのかもしれない。
それでも彼は私の質問に丁寧に答えてくれていた。

彼に近づこうと頑張っていたのだが、どうしても私は苦いコーヒーを美味しいとは思えず、帰宅時にはコンビニでカフェオレを買い、甘いカフェオレを飲むとやっと心が落ち着く感じを味わっていた。

彼ともっと話をしたい、もっと色んなことを教えてもらいたい、それに加えて仕事以外の彼の顔も見たいと思うのだが、どのように踏み込んだらいいかもわからず、職場と喫茶店以外では彼との接点は見つからなかった。

本当は仕事の話以外の彼の話、私が好きな音楽や物の話をしたかった。でも私の趣味なんて彼には釣り合わないと思っていたし、彼のプライベートに踏み込めるほど親しいとも思えなかった。

彼は私のような駆け出しのデザイナーになんか興味がなく、そもそも暇つぶしや気分転換で喫茶店に私を誘っていてくれているのかもしれない、私が彼のプライベートのことを知りたいなんて思うことはおごがましいことなのかもしれない…自分に自信がなくそんなことも思っていた。

喫茶店では優しい笑顔を見せてくれるのに職場に来る彼はいつまでたってもどこか他人行儀で、私のことなんか見えてもいない風だった。

彼はいつまでたっても私の憧れの人のままだったのだ。
そんな時、私は友達に合コンに誘われた。気が乗らなかったのだが、友達に頼み込まれしぶしぶ参加した。
そこで出会った一人の男性になぜか猛烈なアプローチをうけたのだが、その男性は彼とは違ったタイプのちゃらちゃらとしている人だった。
私は洗練された大人の男の人が好きなのだ、と頑なにその男性の誘いを断っていたのだが、一回だけでいいからご飯に行こうよ!と強く誘われ、一回だけなら…と、一緒にご飯を食べにいった。

待ち合わせに指定された場所は最近遠ざかっていたコーヒーチェーン店。

久しぶりにお店に入ると、店には若い子からサラリーマン、主婦まで色んな層のお客さんがいて、懐かしさと安心感を覚えた。
そして待ち合わせ時間まで少し余裕があったので、甘いコーヒーと大好きなスコーンを頼み、久しぶりに狭いテーブルと少しかたいソファーに座り、コーヒーを飲んだ。

彼といつも行く喫茶店とは違いがやがやとしていて、落ち着かない雰囲気だ。スマホを見ている人もいる、新聞を読んだり本をよんだりして時間を潰しているようなサラリーマン、大きな声で笑いあっている学生もいる。

そんな中で甘いコーヒーを飲んでいると、等身大の自分になれた気がした。苦いコーヒーを無理矢理飲んで、よくわからない話に一生懸命相槌をうち、見当違いな質問をしていた自分より、よっぽど楽だった。

ここではみんな思い思いの時間を過ごしている。私は何をそんなに背伸びをしていたのだろうかと思った。
苦いコーヒーよりもこの甘いコーヒーが好きなのだ。これが本当の私なのだ。

待ち合わせ時間をちょっと過ぎて彼が現れた。ニット帽とダウンジャケット、スニーカーといった気取らない服装で着た彼に、ファーのついたコートを着て、ヒールを履いている自分がちょっと恥ずかしくなった。

彼が連れて行ってくれたお店は気取らない感じのおしゃれな居酒屋で、そこで私は久しぶりに仕事のことも、何かをインプットしなきゃという強迫観念もなく笑って食事ができた。私ってこんな風にくだらない話でケラケラと笑うやつだったし、こんなくだけた居酒屋好きだったよな~と彼と話していると思い出したのだ。

そして今、私はこの時の彼と一緒に暮らしている。
2年ほど彼とお付き合いし、今は結婚に向けての準備中だ。勤めていた会社を辞め、がやがやとしたビジネス街から海や山ばかりの田舎の方に引っ越してきた。

私は彼と付き合いはじめてから、ヒールを履いたりワンピースを着たりしないようになった。元々ジーンズにスニーカーといった格好が好きだったのだ。

難しい話に相槌を打つこともしないし、そもそも彼はそんなに難しい話をしない。面白いもの・素敵なものを共有して一緒に楽しんだり笑いあったりしている。
彼も朝は必ずコーヒーを飲むのだが、豆にこだわったりはしない人で、私はスーパーで特売の粉を買ってきて、毎朝彼のためにコーヒーメーカーのスイッチを入れ、コーヒーを淹れている。
彼は寝ぼけながら、そのコーヒーを毎日飲んで、「おいしかった!」と笑顔で私に言って、元気に仕事に行っている。

私は彼が仕事に行った後に一人でゆっくりコーヒーを飲むのだが、絶対に砂糖とミルクを入れ、甘い甘いコーヒーにしている。

会社を辞めるとき、喫茶店で彼に最後の挨拶をした。

「今までありがとうございました。つたない質問ばかりしていたと思います。ごめんなさい」と私が言うと
彼は「いや、こちらこそありがとう。君の純粋な学びたい気持ちから刺激を貰っていたよ。」と優しい笑顔で言ってくれた。

最後までその喫茶店で彼が飲んでいた小さなカップに入った濃いコーヒーの名前が私はわからなかった。知ろうと思っていなかったのかもしれない。そして私は最後までその喫茶店のコーヒーが苦かった。

彼と別れた後、私は色んな感情が交じり合って、泣いた。
彼のことを好きだったのか憧れだったのかわからない。でも手の届かない彼の存在が私にはとても大きなものだったこと。彼に少しでも近づきたくて仕事を頑張っていたこと、色んな本を読んだこと。

でもやっぱり最後まで苦いコーヒーが苦痛だったこと。

ビジネス街を歩く人々は泣いている私をチラッと一瞥し、また歩き出す。この街には感情がないのだ。みんな急いでいる。

そんな街で、あの喫茶店は静かで落ち着いた雰囲気をずっと変わらず持ち続けていた。泣くならあの喫茶店で泣けばよかった。でもあの場所も私にとっては背伸びをしていて落ち着けなかった。泣けなかっただろう。

そう考えると涙はさらに溢れてきて、嗚咽をあげながら街を歩いた。さぞ情けなかっただろう。
そして私はデザイナーという仕事を辞め、今は田舎で毎日綺麗な空気を思いきり吸い込み、穏やかに流れる時間を過ごしている。

何をインプットしたかったのか、私はデザイナーとしてインプットした知識をアウトプットできていたのか、そんなことはもうわからない。

とにかくがむしゃらで、頑張らなきゃ、頑張らなきゃと無理をしていたなぁと今思い出すとちょっと自分でも笑ってしまうほどだ。社会人になったばかりで背伸びをしながら彼と仕事について話をしたその喫茶店に行くことは、もう二度とないと思う。

そしてこれから私は自ら進んで苦いコーヒーを飲む事もないだろう。落ち着いた喫茶店よりも、がやがやと色んな人の集まり・色んな感情が渦巻いているコーヒーチェーン店の狭いテーブルとかためのソファーに座って甘いコーヒーを飲んでいる私が本当の私なのだ。

今住んでいる場所は本当に田舎で、その好きなコーヒーチェーンも近くにはない。
でも私はここで過ごす彼氏との生活と、毎日朝イチで彼氏のために淹れてあげるコーヒー、自分ひとりでゆっくりと味わう甘いコーヒーの味を大切にしていこうと思っている。

明日も彼の朝は早い。私は彼より早く起き、安いコーヒー豆をコーヒーメーカーに入れ、キッチンいっぱいにコーヒーの匂いを漂わせながら、ベッドで寝ている彼の頬に優しく触って、「朝だよ、コーヒー入っているよ」と彼を起こすのだ

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