大嫌いだった珈琲

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私は、コーヒーが大嫌いだった。
小学生のころ、大人たちが好んで飲んでいるコーヒーというものがどんな味なのか興味を持って、父が飲んでいたコーヒーを一口もらって飲んでみたが、なんでこんなに苦くて後味の悪いものを好んで飲むのかさっぱりわからなかった。
それは高校生になっても大学生になっても変わらず、コーヒーの香りを嗅ぐと頭痛さえした。
やむを得ず、コーヒーを口にする時には、必ずポーションミルクを2つ入れ、コーヒーシュガーを2本以上入れて、胸やけがしそうなほどに甘くして飲んだ。

 
そうすると、胃痛さえするので、本当に大嫌いな飲み物であった。
高校を卒業して、田舎から、さらに田舎の大学に行き、一人暮らしを始めると、朝は決まって紅茶を飲んだ。
朝起きたら、紅茶を入れて、トーストを焼く。それを流し込んで、講義ぎりぎりで大学に向かう、そんな日常だった。友人とコーヒーのおいしい店に行っても、私は紅茶を頼んだ。誰と一緒でもそれは変わらなかった。
そうやって、就職するまでコーヒーとはかかわりのない日常は続いた。それはずっと変わらないと思っていた。

 

田舎の大学を卒業し、就職のため、上京した。
上京しても、一人暮らしだったが、付き合いで飲む機会が増えた程度で、コーヒーから離れた暮らしには変わりはなかった。
仕事はきつかった。毎日、残業続きでパソコンに向かい、資料作りをし、コピー機で大量にプリントし、走り回る日々だった。だんだんそんな日常が普通になってきて、こんなことがずっと続くのかなと思いながら、日々を過ごした。
その間も、客先でコーヒーを出されても、ポーションミルクと大量の砂糖でごまかして何とか飲み、それ以外は一切コーヒーを飲むことはなかった。

 

就職して1年が経ったころ、私の部署に、それまで空いていた課長のポストに他部署から課長が異動してくることになった。
新しく来た課長は、30代前半で、しゅっとした体形に、切れ長の目、整った形の鼻、とがった顎、高級そうなスーツを着た課長は、とっつきにくそうではじめは苦手だった。仕事以外のことで自分から話しかけることはなかった。
でも、仕事を一緒にしていくうちに、課長の食事すら忘れてしまうほど、仕事に対してストイックな姿、そして、相手が誰であろうと、話を真剣に聞いて、相談に乗ってくれる姿、そのくせ、いたずら好きで、人にいたずらを仕掛けて成功すると本当に子供みたいに笑う姿を見ているうちに、そんな課長に打ち解けていった。

 

そんな課長の朝の日課は、毎日、会社近くの喫茶店でテイクアウトのコーヒーを買ってきて、デスクで飲むことだった。
その喫茶店は、店主がサイフォンコーヒーで入れている、こだわりの喫茶店だった。
課長もコーヒー好きなんだぁ、よく飽きもせず、毎日毎日買ってくるなぁ・・・なんて、半ば呆れながら毎日眺めていた。

ある時、私のミスのせいで、社内に誤った内容のメールが送られてしまい、部長に怒られ、落ち込んでいると、課長からメールが届いた。そこには一言だけこう書いてあった。

 

—「息抜きにお茶しに行こう!」

課長を見ると、目で合図されて、席を立った。
課長に連れられて、会社近くの課長がいつも行く喫茶店に入ると、課長がメニューを私に渡して
「なんでも頼んでいいぞ。好きなもの頼め。甘いものだっていいぞ」と言った。
会社を抜け出していることで、私は後ろめたさでいっぱいだったが、自分のしたミスに途方もなく落ち込んでいたため、どうしてもその日は仕事をする気にはなれなかった。
それに、課長が私を励ますためにここに連れてきてくれたことはわかっていたので、課長の厚意に甘えることにした。
課長はいつものブラックコーヒー、そして、私はチョコレートケーキと、なぜか・・・コーヒーを注文した。

私が頼んだチョコレートケーキとコーヒーが運ばれてきた。
その時点で、少し後悔した。苦手な香り、この黒い色。一口飲むと言い表しがたい苦さが口の中に広がる。
でも、コーヒーが大好きな課長の前では言い出せずに、覚悟を決めて、ブラックのまま一口飲んだ。
その瞬間、口の中にほろ苦さと、それ以上に香りが広がって、その香りがなんとも甘いのだ。今まで感じたことのない味だった。
「おいしい!」
思わず口にしていた。
「だろっ?ここのコーヒーは本当においしいんだって。間違いないから」
と言って課長がうれしそうにいった。
その顔が本当にうれしそうで、その瞬間、私は、課長もコーヒーも好きになっていた。

それ以降、私が会社へ行くのは、課長に会うことが目的のようになっていった。課長に会えることが、話せることが、課長を見られることが本当にうれしかった。どんどん課長のことを好きになる自分を止めることができなかった。
そして、課長と喫茶店に行ったあの日から、課長と同じように、あの喫茶店のコーヒーを飲むようになった。朝同じようにコーヒーを買うのでは、あからさまになってしまうと思い、お昼や残業の時に一人で行くようになった。

 

あんなに嫌いだったコーヒーを自ら買って飲んでいるなんて、考えられなかった。
あまりの自分のわかりやすさに笑ってしまった。
でも、課長と同じコーヒーを飲んでいることと、その程よい苦みと甘い香りが私の心を満たしていった。
それで満足だった。課長は社内でも一目置かれる存在で、地味な私には決定手が届く存在ではなかったから、これ以上は望むまい。そう決めていた。

就職して1年が経ち、夏も近づいたある日、残業をしてひと段落した時、いつものように、喫茶店に行くと、出張帰りの課長が一息ついているところだった。
「お疲れ。まだ仕事していたのか?」
「課長こそ、お疲れ様です。出張からなら直帰すればいいじゃないですか」
「いや、なんかさ、仕事が気になってさ。もう終わり?」
「そうしようと思います」
「それじゃ、飲み行こう!」

課長と2人で飲みに行くなんて初めてのことだったから、緊張した。
たまたま自宅の方向が一緒だったので、一緒に電車にのり、課長の行きつけの店で飲むことになった。
お酒を飲んで、とりとめのない話をして、あっという間に時間は流れた。楽しくて、この瞬間が本当にいとおしくて、永遠にこの時間が続くことを祈っていた。
でも、時間は過ぎ、終電間近になって、現実に引き戻され、最後はやっぱりコーヒーで締めることになった。
課長と一緒に飲むコーヒーは本当においしかった。

そして、課長が言った。
「付き合ってる人はいるのか?」
私は、
「いないですよ。今はそれどころじゃないですし。いつかは大好きな人が現れればいいんですけどね」
と返した。すると、課長は、
「だったら、それが俺っていうのはどう?」
と言った。私はふざけてるのかと思い、
「課長、何を言ってるんですか。ふざけないでくださいよ。こんなしがない新入社員に向かって」
と言った。課長は
「ふざけてなんかいない。どうしても目に入ってくるんだよ。お前が。最初は、何とも思ってなかったんだ。でもさ、日々、お前の行動を目にしていたら、一生懸命に泣いたり、怒ったり、馬鹿だなーと思ったり・・・だんだん目が離せなくなってきてさ、あー、ほっとけないなって、そばにいないとなって思ったんだよ。俺だって30年以上生きてきて、こんなこと初めてだからさ」

嬉しかったし、信じられなかった。決して手に届かない人だと思っていたから、課長からの言葉が本当にうれしかった。私は思わず泣きながら、
「そんなこと言っていいんですか?真に受けちゃいますよ」
と言った。
「お前がいいんだよ」
と言って、課長が頭を撫でで、触れるくらいのキスをした。
コーヒーのいい香りがした。

それから、私と課長のお付き合いは始まった。会社にばれることはご法度だったので、隠れてのお付き合い。
二人で初めての旅行に行った時、また喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。

「私ね、コーヒー嫌いだったんですよ」
ふと言ってみた。
「小さいころに父親が口にしているをちょっと飲んでみたら、香りはいいのに、ものすごく苦くて、そこから嫌いになってしまったんですよね。大学卒業するまで嫌いで、ずっと紅茶ばっかり飲んでました。でも、課長が初めてあの喫茶店に連れていってくれた時、初めてコーヒーがおいしいと思えた。あの時から、コーヒー好きになったんです。課長がいなかったらコーヒーはまだ嫌いだったかもしれない」
課長が笑いながら
「あ、やっぱり嫌いだったんだな。お前、普段からコーヒー全然飲んでる様子もなかったから、なんとなく嫌いなんだなって思ってた。だから、あの時、お前がコーヒー飲んだのを見て、すごく意外だった。でも、おいしいって言ってくれて本当にうれしかったよ。」
とまた本当にうれしそうな顔で言った。それから笑いながら、続けて
「実はさ、俺も嫌いだった。全然飲めなかった。俺がさ、コーヒー飲めるようになったきっかけはさ、ハワイなんだ。25歳の時に、ハワイに初めて行ったんだ。その時に現地の人に勧められてさ、コーヒー飲んだんだよ。そしたら、俺の思ってたコーヒーと全然違うんだよ。日本で飲むコーヒーとは全然違う。本当にこれがコーヒーかっていうくらいさわやかな香りでおいしかったんだよな。コーヒーに詳しい人に聞いたら、豆が圧倒的に新鮮なんだって。コーヒーなんてさ、どこで飲んでも一緒だと思ってたから、本当に衝撃だったよ。それ以来コーヒーが好きになって、毎日飲むようになったんだ」
と教えてくれた。そして、
「いつか絶対、お前にハワイのコーヒー飲ませてやる」
と言ってくれた。

 

それから、たくさん泣いたり、喧嘩をしながらも、私たちはずっと一緒にいた。どんな時も・・・。飽きることなく、課長が大好きだった。
いつからか、毎日、同じコーヒーを毎朝デスクで飲むことが日課になっていた。
コーヒーのこともたくさん勉強した。課長から聞いたハワイのコーヒー、行ったことはないくせに、どんどん詳しくなっていって、いつか飲みたいと思いながら、日常は過ぎていった。

ある時、仕事中に、課長から電話で呼び出された。
「今から出られるか?出られたら、いつものところに来てほしい」
「わかりました」
気づかれないように職場を抜け、いつもの喫茶店に向かった。
店に入って、課長を見つけると、課長はすごく神妙な顔をして待っていた。私はただならぬ予感がしながら、課長の前に座った。
すると、課長がスーツの内ポケットから、何かを取り出した。

それはハワイ行きのチケット2枚だった。
私と課長の名前が印刷されたチケット。
私が驚いた顔をしてチケットを見ていると、課長がさっきの神妙な顔から、打って変わって、ものすごくうれしそうな顔で、私の大好きな笑顔で
「いつか絶対連れて行くって言ったろ?コーヒー飲ませてやるって言ったろ?一緒に行ってくれるか?・・・それから、これから毎朝同じ家で、おいしいコーヒーを入れてくれないか?」
と言った。
私は、ポロポロ涙をこぼしながら、うなずいた。

あんなに大嫌いだったコーヒー。でも、この人に出会えて、この人と一緒にコーヒーも好きになって、今はどちらも欠かせない存在。
これからも私は、この人とコーヒーと一緒に過ごしていくのだろう。

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