甘くて苦いブラックコーヒー

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昔から、コーヒーを飲んで気持ちを変えることが日常の習慣になっていた。
朝、前の日の夜に遊んで夜更かしをしたせいで、どうしても眠くて眠くて目が開かない。

 
そんな時には熱いブラックコーヒーを飲んでシャキッとした気分に気持ちを切り替えるし、大学で、試験で赤点をとったとか、ゼミの発表で失敗して赤っ恥をかいたときなんかは、学内の自動販売機で120円のカフェオレを買って、甘くて良い匂いと味に癒されて、またこれから前向きに頑張ろう。
こんな風に、気持ちを切り替えたりする。
コーヒーは、僕の心と体を切り替えてくれるスイッチなのだ。でも、あまり喫茶店とか、カフェなんかには行ったりはしない。
正直、家で淹れたり自動販売機で買うよりも高くついてしまうからだ。
特に学生にとっては、コーヒーであまり出費が多くなるのは厳しい。
だから、これからも、少なくとも社会人になってお金をガンガン稼ぐまでは、デートで休憩するときなんかを除いては、そんなお店にはあまり行かないだろうと思っていた。
少なくともひとりでは。

 
大学に通っていると、3日に一度、ひとつくらいは、自分にとってとても不快なことが起こるものだ。
たいていは、自動販売機の缶コーヒーのカフェオレが、綺麗さっぱり洗い流してくれる。
だけど、なかなか何でもかんでもワンパターンで解決することができないのが、人生の難しいところだ。
ある日のゼミの授業でのプレゼンテーションの時間。
同じ班の中でとても仲が良く、一番信頼していた友達が、プレゼンテーションの資料の中で、もっとも大切になる書類を忘れてきてしまったのだ。
人が他人に怒りを覚えるのは、その人に期待をしていたにもかかわらず裏切られてしまうからなのだという。
その相手が大親友なら、そのガッカリ感はハンパ無いものだったのだろう。
「どうしてLINEでもあんなに何度も念を押して忘れないように、って伝えてたのに忘れてくるんだよ!」
僕は今まで自分自身が感じたことがないほどの怒りを覚えていた。
それに対して彼は
「ごめんごめん。確かにLINE見て返信して、忘れないようにしてたんだけど、ついうっかりして・・・最近疲れも溜まってたからなあ」
まるで他人事のように無責任に弁明する彼の返事に対してますます失望し、怒りを通り越して呆れ返った状態のままでプレゼンテーションの時間が始まった。
言うまでもなくその結果は散々なもので、僕は班のみんなとは誰ひとり口をきかずに、授業が終わってからすぐに教室を飛び出して行った。
その日は、とても自動販売機のカフェオレで癒せるような気持ちではなかった。呆れもとっくに通り越して、悲しくなってきてしまった。
ただ、コーヒーでないと気分を変えることはできない、と言うことだけは分かっていたのだろう。
とにかく、いつもとはぜんぜん違う、もっと自分の心をスッと癒してくれるコーヒーがほしい・・・。
砂漠の中を歩き回って喉がカラカラになり、オアシスを求めて探し歩いているかのように、そんな素敵なコーヒーがある場所を求めてさまよい歩いていた。
そんな時に見つけたのが、大学から最寄りの駅に向かう、通学路の途中にある小さな喫茶店だった。
いつもこの道を歩いているはずなのに、ぜんぜん気づかなかった。
人間、興味がないとまったくその対象が視界の中に入らないものだ。
僕は、やっと見つけたその場所がオアシスであることを信じて、喫茶店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ!」
元気で明るい声が聞こえてきた。
そこにはオアシスがあったかどうかはよく覚えていない。
ただ、女神様がそこにいたのだけははっきり覚えている。
同じ大学の大学生のアルバイトの女の子だろうか。
僕は、なんでこの店に入ったのか、その理由も忘れてしまうくらい、彼女の姿に夢中になっていた。
「何になさいますか?」
初めて喫茶店にひとりで入ったので、動揺して何を頼めばいいのかよく分からない。とりあえずブラックコーヒーを頼もうとしたら、アメリカンコーヒーなのかブレンドコーヒーなのかを尋ねられた。そう言う名前の豆のブランドなんだろうか、と勘違いするくらいに初心者だった。あるいは、彼女が注文を聞きに来たので、余計に混乱していたのかもしれない。
「と、とりあえず、今日のオススメの方をください」
彼女がクスッと笑っていたような気がした。結局僕の元にやってきたのは、その喫茶店独自のレシピで作られたブレンドコーヒーだった。

 
そのブレンドコーヒーの味が、いつも家で飲んでいるブラックとどのくらい違う味なのか。そんなことを確かめている余裕はなかった。
することもないのでひたすらスマートフォンをいじりながら、焦ってるから汗臭くなってたりしていないかな?髪の毛が乱れたりしていないかな?などと、彼女に変なふうに見られたりしていないか。そればかりをずっと気にしていた。
緊張していたからか、びっくりするくらいのスピードでコーヒーを飲み干してしまった。
持て余してすぐに横にある水を飲み干す。すると、彼女がそれを見つけて水を注ぎに来てくれる。
それが、嬉しいやら恥ずかしいやら、恥ずかしさが勝ってしまい、その日はわずか15分ほどの滞在で喫茶店を出てしまった。
僕の気持ちはすっかり晴れて有頂天になっていて、大学であった出来事を思い出したのは翌日の朝になってからのことだった。
結局、プレゼンテーションで不仲になった彼とは、1ヶ月くらい口をきかない日々が続いたが、急に彼が態度を変えて謝って来た。
あまりに唐突だったので自分でもどう反応したらいいのかよく分からなかったが、とりあえずこのまま不仲を続けていても、周りのゼミの生徒にも気を使わせることになるだろうし、謝って来たのなら許してもいいか、と思い仲直りをすることにした。

 
1ヶ月も話をしていないので、募る話もあるし、あの例の喫茶店の女の子のことも話したいし、久々に会いに行きたくなったので、友達と2人であの喫茶店に行くことにした。
あの子は今日は出勤しているんだろうか?
そもそも今日はお店をやっているんだろうか?
いろいろなことを考えながら通学路を歩いて行く。
友達と仲直りできたこともあって、いつもよりも軽い足取りで道を歩いて行く。
喫茶店は無事に営業しており、女の子も出勤していた。
「ここはブレンドコーヒーがとっても美味いんだよ」と、常連風に話す僕。彼も、こういう、いわゆるチェーン店ではない地元の喫茶店に来るのは初めてで、お店の存在は知っていたものの、なかなか入れるような雰囲気ではなかったので躊躇していたらしい。

 
その後、お店の女の子が可愛いという話をして、
「お前もしかして、あの子の顔が見たいから俺をここに誘ったのか?」
と見透かされ、そんな話をしていると彼女が注文にやってきた。
すると彼女が友達の顔を見て
「いらっしゃいませ・・・あれ?
去年の経済学の授業で一緒だった◯◯くん?」
なんと、彼女と友達は、去年の大学の授業で一緒だったのだ。
お互いが知り合い同士だったという嫉妬と、まるでこの2人を仲良くするために自分がお膳立てをしてしまったようになってしまった怒りで、僕は気持ちを変えるためにブレンドコーヒーを飲んだが、その日は気持ちが晴れることはなかった。
友達自身は、さほど彼女には興味がないようで、そもそも興味があれば去年の大学の授業で一緒だったことを忘れているはずがない、と言っていた。

 
確かにその通りだけど、なんだかまた親友に裏切られるような、嫌な予感がしていた。
その後、まるで友達と競い合っているかのように、彼女との親密度を上げるためにほぼ毎日喫茶店に通いつめて、ちょっとずつ彼女と話をしていき、仲良くなっていった。
しかし、なかなか食事などのデートに誘い出すことが難しく、いったいどんなタイミングで切り出せばいいのだろう?と、躊躇する日々が続いていた。
すっかり、この喫茶店のコーヒーで自分自身の気持ちを入れ替えることが日課になっていった。
そんなある日、彼女からショッキングな話を聞かされた。
「昨日マスターから聞いたんだけど、もうマスターが歳なんで、そろそろかなのお店を閉めることにするらしいの。私も、閉店まではここで働くつもりだけど、もうそれからはまた別のところでアルバイトしないと・・・」
まだ彼女の連絡先も聞いていなかったので、このままだと閉店以降ずっと会えなくなってしまう。
僕は奥手だったので、まだ彼女の連絡先も聞いていなかったのだ。
慌てて自分のスマートフォンを取り出して、
「じゃあ、また閉店してからでも話したいから、よかったらLINEのアドレスを教えてもらってもいい?」
すると彼女は僕の友達の名前を出し、
「あ、それだったら今スマートフォン手元にないし、◯◯くんが私のLINE知ってるから、そっちで聞いて」
友達がLINEのアドレスを知っているなんてまったく知らなかったので、強いショックを受けてしまった。
その後、実はあの喫茶店で再開してから2人が付き合いを始めたことを知ったのは、それから間も無くのことだった。
一杯の、いつもと同じブレンドコーヒーなのに、これほど飲むたびに一喜一憂させられた飲み物は他にはないだろう。今ではその喫茶店は閉店してしまって、あの同じ味のブレンドコーヒーを飲むことはできない。

 
ブラックだったけど、時には砂糖よりもはるかに甘く、時には渋柿よりもはるかに苦い味がしたあのコーヒー。
あれから何年もたち、社会人になった今でも僕はコーヒーを飲むことで、自分の気持ちを切り替える日課を続けている。
社会人になってからは別の女性と付き合うようになり、結婚もすることができた。
今では毎朝家で淹れるブラックコーヒー、それにカフェで一息つく時に飲むコーヒーは、僕の心を常に癒してくれる。
けれど、たまにはとても甘いブラックコーヒーや、とんでもなく苦いブラックコーヒーをひさびさに飲んでみたいな、とふと思ったりもするのだった。

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