効くよ、コーヒーは

働き出して五年も経つと、分からないことは減ってきて、仕事の量だけが増えていきます。出世なんて遠い話で、仕事を振れる部下もなく、毎日、残業でした。疲れは日に日に溜まっていき、真綿で首を絞められるような気持で日々を過ごしていました。
煌々と明かりの点いた事務所でひとりデスクに向かっています。送られてきていたメールに返信し、資料に目を通して、データをまとめました。九時をまわるころには、自分でも分かるほどに頭の働きが鈍くなってきました。このまま続けても効率が悪いだけです。
休憩もかねて、事務所のそばの自動販売機で缶コーヒーを買いました。大きく一口、煽るように飲みました。やっぱりおいしくない。
私がコーヒーのおいしさを知ったのは、大学のゼミでのことでした。
大学三年生になったとき、ゼミが始まりました。より興味を抱いた分野を、専門としている教授のもとで、より深く学ぶためのものです。
はじめて教授の研究室を訪ねたときのことです。
ノックをしてから、ドアを開けると、丸い眼鏡をかけた女の人が、研究室の真ん中のテーブルで濃い茶色の小さな箱から伸びたレバーを丁寧に回していました。レバーの動きに合わせて、がりがりと硬いものをひっかくような音がしています。
何をしているんだろうか? 誰なんだろうか? 私の記憶が正しければ、教授は男性です。部屋を間違えたかもしれないと「すみません」とドアを閉めようとすると、女の人が「こんにちは」は声をかけてきました。落ち着いた声をしていました。手元のレバーのぐるぐるは止まっていません。
「今日から来る、ゼミの子?」
「そうですけど……」
「一番乗りだね、教授よりも先だよ」
幼い子どもを誉めるように女の人は言いました。でも私はまだ事態が飲み込めていません。
「そうだ、教授が来るまで、やることはないよね」
「ええ、まあ」
「じゃあ」
そう言って、女の人が手招きしました。誘われるままに近づいて、譲られるままに席について、言われるままに小さな箱から伸びるレバーを握らされました。
「交代」
「え、でも、これ何なんですか?」
女性が驚いた顔を見せました。
「知らない? コーヒーミル」
言われてみれば、ドラマなんかで見たことあるような気がします。小さな古めかしい喫茶店で、年老いたマスターが「いらっしゃい」とお客に渋い声を浴びせながら、手元で回しているようなイメージです。
「じゃあ、任せたから」
そう言って、女性は立ち上がりました。そこで気づいたのですが、背の高い人でした。私も男性としては低いほうではないのですが、もしかしたら私より高いかもしれません。細い腰回りに、色落ちしたデニムジーンズがよく似合っています。
女の人は研究室の棚を開けて、マグカップを用意したり、コーヒーフィルターをセットしたり、手際よく準備を進めていきます。
私は、とりあえず言われた通り、コーヒーミルのレバーをぐるぐると回しはじめました。女の人は軽そうにやっていましたが、意外と重たかったです。するりと進んでは、何かに引っかかってレバーが止まります。力を込めればすぐに回りだしますが、また何かに引っかかって……、その繰り返しでした。
女の人はがりがりがりと一定の音を立てていたのに、私はがががっと進んでは静まってまたがががっと音を立ててと不規則だし、音自体も女の人がやっていたときよりもずっと大きい気がします。うまく出来ているのか不安でした。
「コツはね」
電気ケトルに水をそそぎながら女の人は言いました。
「豆の細かさが揃うように、一定の力で回すことかな。そんなに力を入れなくて大丈夫だよ」
言われるままに腕の力を抜いて、レバーを回せば、コーヒーミルの立てる音が、女の人が出していた音にほんのすこしだけ似たような気がしました。「うまい、うまい」と女の人は誉めてくれました。
それですこし余裕が出てきたのか、コーヒーミルのレバーを回すごとに立ち上ってくる香りに気づきました。駅裏の古書店でときどき感じる匂いに似ています。甘く気高く発酵したような匂いで、それに従って本を選べば外れることはありませんでした。ときには廃盤になってプレミアのついている古典的名作を見つけ出すこともありました。
あの匂いに似た香りがする。それがコーヒー本来の香りと気づくまで、すこし時間がかかりました。
「教授たち、遅いね。他のゼミ生たちも」
女の人が言いました。すでに豆は引き終わっていて、コーヒードリッパーからぽつり、ぽつりとポットに雫が落ちる様子を二人で見守っていました。
もしかしたら日にちか時間を間違えているかもしれないと不安になりましたが、それを言い出すことはしませんでした。初対面の私にコーヒーミルを引きなさいと言ってきた、奇妙な女の人と、このときはまだ何者なのか分かっていませんでした、もうすこし二人きりで話してみたいと思っていました。
雫がぽつりと落ちて、続く雫が落ちて来なくなりました。ポットはほとんど満杯になっています。
「はやく作りすぎちゃったなぁ。ねえ、せっかくだから先に飲んでようか」
応える間もなく、女の人が手早くカップにコーヒーを注いで、私の前に置きました。
「どうぞ」
勧められるまま一口飲んで、思わず声が漏れました。
「あ」
「ごめん、もしかしてコーヒー苦手だった」
「いえ、そうじゃなくて」
私はこれまで缶コーヒーやインスタントコーヒーしか飲んだことありませんでした。ファミレスのドリンクバーで飲む機会もあったけど、どうでしょう、あれはインスタントの延長線でしかないと思います。
いま飲んだもののことを思えば、これまで飲んできたものが、コーヒーのような何かに過ぎませんでした。
「コーヒーを、生まれて初めて飲んだのかもしれません」
笑われました。大笑いでした。笑いすぎて、涙が浮かんでいました。確かに現代日本で、一度もコーヒーを飲んだことのない人なんていないでしょう。でもそのときに、本当に、初めて本物のコーヒーを飲んだと思いました。
それからようやく自己紹介をして、女の人がゼミの先輩だと分かりました。大学院生で、教授の助手のようなことをしているそうです。コーヒーは先輩の趣味で、ゼミなんかで研究室に人が集まるとき、すこし早めに部屋を開けてもらって淹れるそうです。
なぜそんなことをするの聞くと先輩は、「コーヒーは、効くから」と言いました。
「うちの教授、小難しい話が好きだから。頭が疲れたときには、効くのよ、コーヒー」
実際にゼミを体験して、確かにその通りだと思いました。学生の理解などお構いなしに専門用語を交えて説明する教授の話についていくには、頭を全力で回転させないといけません。そのうち頭が疲れてきて、話題に置いていかれそうになります。そういうとき、コーヒーを一口飲むと、その苦みと香りが頭によく染みました。
私もゼミのあるときは、すこし早めに研究室に行くことにしました。もちろん、コーヒーを淹れながら、先輩と話すためです。いろんなことを話しました。コーヒーの淹れ方のコツとか、誰の講義が単位を取りやすいかとか。最初、私の役割はコーヒーミルを引く専門でしたが、そのうち先輩が「コーヒーの淹れ方を伝授したい」と言い出しました。別にコーヒーの淹れ方を学ぶためにはやめに研究室に来ているわけではないので、私はあまり乗り気ではありませんでしたが、先輩があまりにも教えたそうにしているので、しぶしぶ教わることにしました。フィルターのセットの仕方やコーヒーの蒸らし方、お湯の注ぎ方など、先輩のしいている一通りの淹れ方を教わりました。おいしいコーヒーの淹れ方なんて、この先、役に立つとは思えませんでしたが、先輩が楽しそうだったので良しとします。
あるとき、どういう流れだったのか、先輩の恋人の話になりました。そうです、先輩には高校の時から付き合っている彼氏がいました。遠距離恋愛で、先輩の研究が忙しいこともあって、年に十回も会えないそうです。
「仲良しこよしで続いてるっていうよりは、別れる機会がなかっただけなんだけどね」
そのとき先輩が見せた、普段からは想像できない甘い表情に、私が入り込む隙はないなと思いました。だからといって、簡単に想いは変わるものではありません。諦めるでもなく、燃え上がるでもなく、先輩への気持ちは燻るように、でも確かに私の中にずっとありつづけました。
研究室の外で会いましょうと先輩を誘うことはできませんでした。断られることが怖かったからです。先輩とゼミの前にコーヒーを淹れる時間があまりにも大切過ぎて、その時間を失ってしまうことはなんとしても避けないといけないと思っていました。
私が大学を卒業することで、二人だけのコーヒーを淹れる時間は終わりました。最後のゼミの前、「ゼミで何を勉強したのかは知らないけど、コーヒー淹れるのだけはうまくなったと思うから」と先輩はコーヒーミルをプレゼントしてくれました。
「私が使ってるのと同じやつ」と微笑みました。私は「お世話になりました」とお礼を言いました。
あれから五年、先輩とは一度も会っていません。卒業してから気づいたのですが、ゼミの外で会おうとしなかったため、まともに連絡先も交換していませんでした。情けない話ですが、まだ十年も経っていないのに、名前さえ思い出せません。
だけど、教えてもらったコーヒーの香りはすこしも薄れることなく覚えています。
空になった缶コーヒーをごみ箱に捨てて、デスクに座りました。頭の回転は鈍いままでした。明日の会議の資料をまとめて置きたかったのだけど、まったく捗りませんでした。缶コーヒーじゃダメだ。先輩から教えてもらった本格的なやつじゃないと。
「コーヒーは効くんだよなぁ……」
ため息を一つついて、資料をカバンに詰め込みました。今日はもう帰ろう、さっさと寝て、明日、いつもより早く起きて、先輩から教えてもらったコーヒーを淹れよう。貰ったコーヒーミルは一度も使うことなく戸棚に仕舞ったままです。鈍くなった頭でこのままデスクにしがみついているより、ずっと効率的にいい仕事ができるような気がしました。
覚えているかな、淹れ方を。先輩の名前さえも忘れてしまっていますが、想いは胸の奥に仕舞ったままで、きっとおいしいコーヒーの淹れ方は身体が覚えています。
先輩への想いは、どこにも行くこともなく、いまだに私の心の奥に仕舞われています。叶うことのない想い。でもその思い出は、不器用な私の生き方の一個の指針になっています。

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