朝飲むコーヒーと夜飲むコーヒーと、どっちが好き?

Pocket

「朝飲むコーヒーと夜飲むコーヒーと、どっちが好き?」
と彼女に聞かれて、くだらない質問だなとつい笑ってしまった。僕は「君はコーヒーが好きなんだね」と多少曖昧に答えると、彼女は「とくに好きじゃないけど、コーヒー好きな人って朝によく飲んでる気がする。

私のうちでは紅茶が多いから、自然に紅茶党になっちゃったけど。」と自分が投げかけた質問に自分で答えた。女性が質問をするときというのは、大抵の場合、自分の話したい話題や欲しい物があるときのことが多い。きっと僕がコーヒー好きなことを知っているから、何かコーヒーの話題で僕を引いておいて、自分の興味のある話題を話すんだろうと思いつつ、何の話なのかなと尋ねたい気持ちを抑えて最初の質問に答えてみた。「僕はいつ飲んでも、それなりに好きだから、朝でも昼でも夜でも、みんな好きさ。」と、さらりと答えた。しかし、そのタイミングで僕の中でおいしいコーヒーが飲みたいという衝動のようなものがむくむくと湧き上がってきた。コーヒー好きはカレー好きとよく似たところがある。外食のカレーライスとコーヒーはセットで注文することが多いから、当然と言えば当然なのだが、その話題が出ると、決まってそれが欲しくなる衝動に駆られるという点がどちらもよく類似している。そんなことを思い巡らしながら、「今からどこかに飲みに行こうか。ここはホテルだからおいしくコーヒーを入れる道具もないし。」と軽く彼女を誘ってみた。すると、意外なことに紅茶党のはずの彼女が二つ返事で「いいよ、どこにするの?」と返してきた。

 

ホテルとは言っても、ここは長期滞在型のホテルで、ちょっと豪華なマンションのような作りだ。小さな台所と、大理石仕立てのバスルームがあって、枕元には読書のための白色LEDのベッドライトがそれぞれについた、かなり大きめのシーリー製のベッドが二つあるシンプルな部屋だ。

 

仕事の関係で京都に行くときは数週間滞在する必要があるから、そんなときは、いつもこの五条・烏丸通り近くにあるこのホテルを利用することと勝手に決めている。そんなホテルに、彼女が遊びにきたというわけだ。僕の初恋の人だった彼女とは、幾分、長くつき合ってきたものの、今もなお、僕は彼女に熱を上げている。そろそろ結婚を考える必要がありそうだなと、言葉には出さなかったけど、この頃、考えるようになってもいた。それで、今回、仕事で京都に来るということになったときに、彼女も行きたいということで、新幹線に一緒に乗ったのだが、その彼女が紅茶党であることは十分承知だから、こうして、今、ホテルで一緒に、コーヒーのエクスプローラーになろうという話をするようになるとは、とても驚いた。

ここはとても気に入っているホテルではあるものの、設備の点で一つだけウィークポイントがある。とはいっても、それがこの長期滞在型ホテルの売りでもあるから好みの問題なのだが。建物のエントランスを入ると長めの通路を通って、もう一つ開くドアの奥に、和風のアクセントを取り入れたシックなフロントデスクがある。明かりを少し落と気味にした店内のフロアには、茶色のコントラストで流れるような模様が描かれていて、それがダウンライトで浮かび上がって見えるというような、とても落ち着いた雰囲気のいいロビーがある。しかし、残念ながら地下1階に自動販売機のコーヒーデイスペンサーはあるものの、とくに食事やおいしいコーヒーを楽しめるようなカフェラウンジは設置されていないから、滞在中の日中の食事は部屋で簡単に済ませるか、食材を買い入れて小さなキッチンで作る必要があるというわけだ。

もちろん、近くにはハンバーガーショップや、安いコーヒー店もあるが、僕好みのおいしいコーヒーショップといえるような店は見当たらないのが実情だ。しかし、京都には四条通り沿いに、たくさんのコーヒーショップがあるし、河原町や烏丸通り沿いにも無数のお店が並んでいるから、たまたま五条・烏丸付近に見あたらないだけという話だろう。

「ネットで探してみようか」と彼女は思いついたように言うと、すぐに自分のスマホをつかんで、ベッドに飛び込むように寝転んだ。くるりと仰向けになっかと思うと、右手の指先ですばやくスマホの画面をなぞって、おもむろに何かを検索し始めた。ならばと、僕も、とりあえずテーブルに無造作に投げてあるカバンの中から、自分の仕事用のノートパソコンを開いてGoogleにキーワードを打ち込んだ。「京都 おいしいコーヒー」などと思いつくワードを入れてみると、ずらずらとお店の名前やブログらしき文字が整然と出てきた。その中に「京都が誇る最高に美味しいコーヒーが飲めるおすすめ店7選!」というリンクを見つけたが、恐らくはアフィリエイト稼ぎの、何やらインチキくさいブログだろうと思いながらも、それを右クリックして開いてみた。今どきのウェブブラウザはタブブラウザタイプだから、見知らぬリンクはタブで新しいページを開くことにしている。こうするとリンクを直接クリックしてページ全体が切り替わってトンデモサイトに飛ばされてしまうという煩わしさとリスクを減らすことができるのでお薦めだ。間違えたと思ったらそのタブごと削除すればいい。その新しいタブで開かれたページに移動すると「京都は一人当たりのコーヒーの消費量が一番多い」だとか、「コーヒー大国京都」などといった提灯ブログ記事特有の表現から始まるブログ記事がつらつらと続いていた。その記事には、東山の「アラビカ」や錦小路市場の入り口の「びーんず亭」や河原町の「六曜社」などが紹介されているが、超有名店や多少理解に苦しむような店の名前が並んでいる。僕にしてみれば、どれも、既に飲んだことのあるお店ばかりだ。京都はコーヒー店も多いが面白い店も多く、長期滞在となると時間がたっぷりとあるから、あちらこちらと仕事のネタ探しと称して、ついでに散策したり、いろいろな怪しい場所に出没したりしていたりする関係で、その筋の有名と言われているお店はほとんどチェックしている。

「いろいろあるようだけど、どれもみんな行ったことがあるお店ばかりだな」とため息混じりにつぶやくと、彼女はぽつりと「このお店は、行ったことないんじゃないの?」と話しかけた。「場所は、京都市役所前の神宮丸太町。ほら、通りがかったことあるじゃん?」しばらく黙っていたせいか、少しくぐもった声でぼそぼそと彼女が言葉を続けた。彼女は横浜育ちだから、同意を求めるときに「じゃん?」と聞いてくる。「ああ、通ったことはあるけど、お店が分かりづらいかな、気がつかなかったな」と僕は淡々と答えた。すると、「じゃあ、今から行ってみたいな」と、積極的な言葉に思わず驚いて。にこりとしてしまった。

ホテルのフロントの前を通って、ホテルのエントランス部分から外に出ると、急激な明るさの変化でかなりまぶしかった。初夏の京都は、夕方とはいえ、日も延びてきてかなり明るいから、照明の少ない隠れ家ホテルから出るときは、しばしばまぶしい思いをしなければならない季節だ。サングラスを部屋に忘れてきたことを少し後悔しつつ、「市役所の近くまで歩くのは遠いから、タクシープールから乗っていくか」と彼女に声を掛けて歩き出した。

プールと言ってしまったが、実は、とくにしつらえたスペースがあるわけでもなく、歩道部分に左車線部分の車道がほんの少し広げられた場所に、ホテルから出てくる客や、通りすがりの客を狙ったタクシーが、二台ほど停車しているだけのこじんまりとしたスペースだ。実は、東京でも、京都や大阪でも、こだわらずに急いで乗ったタクシーで嫌な経験をしてきたから、必ず車のルーフの真ん中に着いている行灯(あんどん)を確認して、よく車を選んでから乗車することにしている。以前に乗った車で大喧嘩したことのあるタクシー会社のタクシーのことを、個人的に「バカタク」と名づけてやり過ごしているが、多分、タクシーからすれば僕のほうが「バカ客」なんだろうが、目の前には幸いにして、その「バカタク」は着けていなかった。京都ではエムケータクシーが非常に有名だ。

 

客が乗るときには運転手がわざわざ下りて来て、運転手付の高級なハイヤーばりに、後部座席の左ドアを開けて笑顔で待っていてくれる。利用客は、最初はびっくりして照れくさい感じはするものの、乗り慣れてくると快感に変わってくるというわけだ。要領をつかんだお客は、逆にドアの前で運転手が出て来てドアを開けるのを待っているようになるという、なかなかにして惑溺性があるタクシー会社だ。そのエムケーが、ときどきプールに着けていることがあるが、今日は京都ではよく見かけるヤサカタクシーが着けていた。「バカタクシー」ではないことで、内心安堵した僕は、彼女を先に後部座席の奥に座らせてから乗り込んで、行きたいコーヒー店の場所を運転手に告げた。

 

「コーヒーには、忘れていた記憶を呼び覚ます効果があるんだよ。」と車の中で、盛り上がるコーヒー店の雰囲気を期待する気持ちから、彼女に唐突に話しかけた。「カフェインが何だとか、ちまたでは健康オタクたちがうるさいけど、コーヒー好きには全く関係のない話だね。コーヒーと音楽があれば、僕は、もう、十分だと思うよ。」などと車の中で彼女としかつめらしく話していると、彼女は僕の話を遮るように、「あ、あのホテルは窓際にカフェがあるね」と言った。頭が回転してきて話が少し饒舌になりかかると、いつもこんな感じで矛先を反らされてしまうけど、僕はそんな彼女のことが大好きだ。とてもキュートでかわいい。そんな彼女に恋心を感じたのは、社会人になってからだ。

 

恥ずかしながら、学生時代はスポーツに熱中して、プロになるつもりだったから、脇目もふらず運動一筋で、彼女を作ることなどには全く興味がなかった。なかったと言うと嘘になるので、ひまがなかった、と訂正しておこう。そんな僕が、仕事で彼女に接したときに生まれて初めての恋心を抱いてしまったというわけだ。それで始めてデートを申し込んでコーヒー店に誘い出したのだが、僕は勝手に、彼女は当然コーヒーが好きだろうと考えていた。

それで、当時はコーヒー通なら誰でも知っている銀座の「宮越屋」に連れて行った。そこは一杯500円程度で普通の喫茶店で使用する三倍の量のアラビカ種の優れた豆だけを使用した、独特の濃い味が楽しめた。でも、彼女は、開口一番、「私は紅茶党だから、味がわかんないし、苦いね」と少し悲しそうな顔で、首を傾げたものだから、その仕草が僕の心の琴線にふれて、ピンと音を立てて鳴り響いた感じがした。もう今は、勤務地が変わった関係で、そのコーヒー店には、あまり行く機会もないが、そのときのことを思い出したら、どことなく胸に切ない気持ちが生じてきた。今は横にいる彼女がその人だから、幸せ者だな。

 

ちょうど、タクシーが信号待ちになったところで、「ほらほら、あのホテル」と彼女は右側にそびえ立つ、大きめのペンシルビルのようなビジネスホテル風の建物を指さした。僕は、彼女にコーヒーにまつわる話の要点を話す前に遮られたのは、多少気分が悪かったものの、すぐに気を取り直して、「どれどれ」と、身を乗り出してみた。僕の左座席の位置からはよく見えないので、彼女の前にかがむようにして、タクシーの窓から通りの右側の河原町通り沿いに建つ、その大きなガラス窓が特徴的なホテルを見つけた。

 

客がびっしりと、その窓際のカウンター席に座って同じような感じでコーヒーを飲みながら外の景色を眺めているのが見えた。ただ、景色とは言っても、河原町通りを走る車の流れを漫然とみているだけなんだろうなと思うが、何か少し滑稽に見えてきたので、思わず、「なあ、あの窓際のカウンター席って、インコか何かの鳥が一列になって電線にとまっている感じによく似ているよな」と僕は、すぐそばの電線に数羽のカラスがとまって、ぎゃあぎゃあと鳴いている姿と重ねて話すと、彼女は「本当だね」と答えた。

 

今度の話は、彼女の気に入ったようで、声を出してケラケラと笑ったが、僕も彼女をそんな気持ちにすることができて、多少、自分を取り戻すことができたような気がしてきた。ここはやはりコーヒー店に着くまでは、あまり堅苦しい話は避けて、ひとまず、彼女と共通の話題で話したほうが気が利いているに違いない。
「君は朝飲む紅茶と夜飲む紅茶と、どっちが好き?」と尋ねてみた。

コメント