モカ・マタリが好きだった。
人生初めての恋人と出会ったのは18歳の時だった。
都内の大学に合格し、上京したての私が見るものは全て新しく、毎日は刺激に満ちていた。
今まで雑誌やテレビの中でした見たことがなかった表参道、原宿、渋谷、新宿、銀座…
同じく上京したての友人と休日の度に目まぐるしく東京を散策した。
初めての一人暮らしも不安だったがすぐに慣れた。
自分で食材の買い出しに行き、献立を考え、公共料金を支払う。
親のありがたみを初めて感じたのもこの頃だった。
大学では部活に入り、たくさん友人もできた。
出身地は違うものの、みんな優しく心を許せる子たちばかりだった。
一ヶ月もすると大学にも慣れ、私はすっかり都内の大学生としての暮らしが好きになった。
5月、構内のカフェテリアでひとりの男性と知り合った。
珍しくひとりでカフェテリアにいた私に、彼は話しかけてきた。
どんなことを話したかは覚えていない。
ただ、優しい声をした笑顔の穏やかな人だな、という印象が残っている。
彼は大学4年生だった。
月曜の午後2時。
いつしかこの時間にふたりでカフェテリアにいるのが習慣になっていった。
彼はいつも珈琲を飲んでいた。
「珈琲っておいしいの?」
と尋ねた私に、一口珈琲を味見させてくれた。
つん、とくる苦味に顔をしかめる私を彼は笑顔で見つめ、
「今度僕がおいしい珈琲を淹れてあげるよ。」
と言った。
6月、彼の家を訪ね珈琲を淹れてもらった。
彼の一番のお気に入りだというモカ・マタリ。
細かい花の装飾が施されたカップに入れてくれた。
構内のカフェテリアでの苦い珈琲の味にトラウマのある私は恐る恐るコーヒーカップに顔を近づける。
途端にふわっと香る甘酸っぱい匂いに私の鼻は捕えられ、思わずそのまま珈琲を口に含む。
やさしいやさしい口の中を撫でるような酸味と心地良い甘さに私の身体は即座に包まれ、思わず彼に
「珈琲って美味しいのね!」
と興奮気味に話しかけた。
少しきょとんとした彼の表情には、ゆっくりと微笑みが浮かんだ。
これをきっかけに、私は珈琲を飲むようになった。
朝起きたばかりのとき、大学の講義が終わった後、夕飯の後。
そして私の座るテーブルの向かいには彼がいつも居るようになった。
彼がモカ・マタリを挽いてくれ、ネルドリップで抽出してくれる朝が日常となっていった。
珈琲の香りと共に始まる新しい朝に心地良く酔いしれる日々、私の大学生活は珈琲と共にスタートしたのだ。
彼との思い出はたくさん増えた。
一緒に珈琲豆を買いに行き、都内の有名な珈琲専門店を巡った。珈琲がきっかけで仲良くなった共通の友人も出来た。
珈琲が全く飲めなかった高校生の私が見たらびっくりするくらい、珈琲が大好きになり、また、珈琲の香りにつつまれている生活のことも愛するようになっていた。
私たちはとにかくずっと一緒に過ごした。
彼との生活は長く続き、私はあっという間に大学3年生になった。
あれだけ新鮮で刺激的だった東京にも慣れ、それどころか都会の人の多さと不親切さに少し辟易としてきていた。
入学したての頃の友達とは続いている子もいれば、自然と疎遠になっていった子たちもいた。
毎年開催しようね!と意気込んでいた仲の良い子たち同士の誕生日会もいつしかやらなくなっていた。
私は就職を考えるようになり、彼は一足先に卒業して働きに出ていた。
相変わらず私たちは仕事や大学以外の時は一緒に過ごしていた。
まれに彼と一緒にいない日は自分ひとりだけで珈琲専門店に行き、そこで読書をすることが私のお気に入りの休日の過ごし方になった。
お気に入りの店は5,6軒あったがその中でも私の一番のお気に入りとなったお店のマスターがある時私にこう言った、
「珈琲はね、食べ物とかと違って嗜好品だからね。ほら、お酒やたばこと一緒ってこと。例えば、ごはんは美味しくなくてもとりあえずお腹いっぱいになったらもう食べたくないでしょ?でも珈琲は違う。今飲んだ珈琲がいまいちだったら、必ずもっと美味しい別の一杯を求めてしまう。もっと自分を満たしてくれるものを求めてしまうんだよ。」
ふうん、そんなものなのかな…と、その時はあまりこの言葉を気に留めることもなく店を後にした私だったが、程なくしてあんなに好きだった恋人と噛み合っていないことに気付いた。
彼といる時間があるとき突然窮屈なのだと気付いたのだ。
一緒に食べるごはん
一緒に過ごす夕暮れ
一緒に帰省する実家
一緒に見るテレビ
一緒に起きて、一緒に眠りにつくこと
一緒に友人たちと会う時間
今まで愛おしくて当たり前だった時間たちが、自分の中で少しずつきりきりと苦しくなっていることに気付いたのだ。
私は愕然とした。
気付いてはいけないことに気付いたのだ…と。
それから、どうしたら自分の気持ちをもとに戻すことが出来るのか必死で考えた。
彼に何も罪はなく、ただ単に私の気持ちだけの問題だから自分だけで解決できると思った。
私の初めての恋、初めての珈琲の味を教えてくれた人、私のこれまでの大学時代すべての思い出を共有した人…
このひととずっと一緒にいれたらどんなに良いだろうと思っていた。
だって彼はとても優しい人で私を愛してくれるから。
毎朝珈琲を淹れてくれ、時には朝ごはんを作ってくれる。誕生日には私好みのお店に連れて行ってくれ、アクセサリーをプレゼントしてくれる。
なにより、毎日私に笑顔をくれる。
愛をたくさんくれる。
そして、私もその愛にこたえたい。
でも無理だった。
どんなに頑張っても、自分の本心に気付いてしまった私はもう彼を愛していない事実を認めるしかなかった。
毎日一緒に飲んでいた珈琲は、いつしかひとりで飲むことのほうが増えていった。
彼に気付かれないよう、少しずつ少しずつ距離を置いていった。
理由をつけて、あまり彼と共有の時間を持たないようにした。
頻繁に出かけていた共通の友人たちとの連絡も控えるようになった。
私はただただ、ひとりで喫茶店に行き、時間をつぶした。
時間をつぶしたところで何も解決することはないとわかってはいたのに。
彼の心を傷つけるだけだとわかっていたのに。
でもそれ以外に自分の心が少しでも楽になる方法が見つからなかったのだ。
こんな状態がしばらく続き、私は大学4年生になっていた。
彼とはまだ付き合っていた。
今でも忘れない、二人で歩いていた夏の夕暮れ時、私の家に帰る途中、彼から突然こんな言葉を告げられた。
「もうすぐ卒業だよね。卒業したら、ちゃんと家を借りて結婚を前提に一緒に住もう。」
もうごまかせないと思った。
もっと早く彼を解放してあげるべきだったと、心底後悔した。
その夜、晩御飯を食べ終わった後ふたりで珈琲を飲みながら、私は彼に別れを告げた。
全て悪いのは私で、彼には何も落ち度はなく、ただ私の愛情が無くなってしまったのだと。
私はそのとき初めて彼の涙を見た。
男の人が泣く姿を産まれて初めて見た。
あんなに美味しいと感じていた彼の淹れてくれた珈琲は、その時は何の味も香りもしなくなっていた。
ただ、珈琲の黒い色を見ながら、うつむきながら、お互い涙を流していた。
こうして私と、初めての恋人との関係は幕を閉じた。
大学生活の終わりとともに、私の恋も終わりを告げたのだ。
彼とは別れた後から一切会うことはなかった。
お互い避けていたというわけでもなく、毎日の行動範囲も違えば、パターンも違ったからだ。
周囲の友人たちも気を使ってくれ、お互いが会わないようにしてくれていたらしい。
彼と別れた私は他に恋人を作る気にもなれず、ずっとひとりでいた。
今までひとりでできなかったことを沢山した。
友達と遊んでいて、そのまま友達の家に泊まりに行くこと。
携帯電話を丸一日気にせずに生活すること。
ごはんを自分の好みだけに合わせて作って食べること。
ショッピングに行って、女性向けのお店だけ見て回ること。
長時間友達と電話で長話すること。
ペットを飼うこと。
異性の友達とごはんを食べに行くこと。
ひとりだけでお酒を飲みにいくこと。
そんな日々が三年ほど続いたある日、大学の同級生に彼が地元で結婚したことを聞いた。
私と別れてしばらくしてから彼は実家に帰り、御両親が切り盛りしていた家業を継いでいたのだ。
後日式に参列した知り合いとカフェで会い、彼の結婚式の写真を見せてもらったとき、新郎からのサービスで参列者たちが珈琲を飲んでいる写真があった。
ああ、この豆はきっとモカ・マタリだろう。
一気に大学時代の思い出がよみがえった。
思い出とともに、鼻の先にかすかに暖かい珈琲の香りが漂った気がした。
幸せそうな、少し大人になった笑顔の彼と、綺麗な花嫁。参列者たちの笑顔。
きっと幸せな式だったのだろう。
いろんな想いが胸をかすめながらも、穏やかな気分を感じた。
さよなら、私の初めての恋人。
もう会うことはないけれど、ずっと幸せでいてほしい。
私に初めての愛をくれてありがとう。
彼は奥さんとどんな出会いをしたのだろうか。
私にしてくれたように、珈琲を淹れてあげたのだろうか。
モカ・マタリが好きなんだよ、と穏やかな笑顔で説明したのだろうか。
友人に別れを告げ、私はひとりカフェを出た。
5月の夜風が気持ち良い。
彼と出会った5月もこんな陽気だった。
新緑の飛び交う街並みの合間から見えるネオン、どこにいってもひとがいるのが苦手だがこの時期だけは風が涼しく私と他人の間をすり抜けてくれ、それすらも気にならない。
星が全くないような夜空にかすかにひとつだけ小さな星を見つけた。
こんな東京で星なんて珍しい。
それにしてもさっきのカフェで飲んだ珈琲は不味かったな。
そんなことを思い出して、私はひとり笑顔になった。
そうだ。
今日は久しぶりにとびきり美味しい珈琲でも飲んで帰ろう。
あのマスターに会いに行こう。
私のことを覚えてくれているかしら。
そうだ、今日は私は私だけの為に美味しい珈琲を飲むんだ。
彼の好きだったモカ・マタリでは無く、私の好きなトラジャを。
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