コーヒーを飲むと、眠れなくなるんだそうだ。
誰でも知っていることだけど、どんなひとが最初に言い始めたんだろう。
きっと、そのひとはコーヒーをひとりで飲む主義だったんじゃないだろうか。
僕がそのコーヒーショップに通いだしたのは、大学3年生の春。
当時、中学生の受験対策の家庭教師をアルバイトでしていた僕は、掛け持ちしていた二人の生徒の家を、交通費をケチってわざと同じ日に授業を組み、歩いて移動していた。
たまたま生徒の家が同じエリアにあったのだが、学区は分かれていたし、歩いて移動するには今だったらすこし遠すぎる。若かったなぁと思う運動不足の今日この頃だが、それはさておき。
一軒目の生徒の授業が終わり、来週までの宿題を国語はここまで、英語はこのページと指示して、エプロン姿のお母さんに会釈をして次の家に向かう。
ちょうど二軒の真ん中あたりへ来たところで、次の生徒の授業までは一時間ほど余裕がある。二人目の生徒の家は共働きで、家庭教師のルールとして保護者のどちらかが在宅していなければ、家に上がり込むことができないので、どうしてもここでロスタイムが発生するのだ。
僕は迷わずに、駅から少し離れた場所にある、どこかのチェーン店にどこか似た外装のコーヒーショップのガラス扉を押した。
「いらっしゃいませ」
僕の顔を見て、店長のおばあさんが声を掛ける。
茶色く染めた、くるくるのカーリーヘアが見事な女性店長は、何度か訪れるうちに僕の顔を覚えてくれて、なにかとサービスしてくれる。この人からしたら、僕なんて孫くらいの間隔なんだろうな。
そして。
「ご注文が決まりましたら、お声掛けください」
席に着いた僕の目の前に、水の入ったグラスを置いて、彼女が言った。
僕と同じ年頃の、ウエイトレスの女の子。
店長とは対照的に黒いストレートの髪型が、小柄なシルエットによく似合っている。
僕がこの店にいつ来てもいるところを見ると、学生ではなくフルタイムで働いているのだろう。
彼女の顔を見ることと、120分の授業でしゃべりつかれた喉をコーヒーで潤すことが、僕がこのコーヒーショップに通う最大の理由だ。
正直、普通の大学生である僕に、コーヒーの違いなんて分かるわけもなく、頼むのはいつもこの店オリジナルのブレンドコーヒー。
いつも通りのメニューを注文し、カウンターの中で店長が入れてくれるネルドリップコーヒーの抽出が終わるのを待つ。
店の中はゆっくりしたボサノヴァが流れ、夕方の時間帯にもかかわらず、そんなに広くない店内にはひとりふたりのサラリーマンが暇そうに新聞をめくる音が聞こえてくる。
駅から少し離れているし、きっと、高校生なんかは駅前のマクドナルドに行ってしまうんだろう。
彼女が、湯気をたてる白いコーヒーカップを運んできてくれた。
と、見るとそのコーヒーカップのとなりに、ラップにくるまれた白いボール状のものが置かれている。
なんだろうと顔を上げると、ウエイトレスの彼女のコーヒー色の瞳と目が合った。
「こちら、あちらの店長からです」
彼女が、おかしそうに微笑んでカウンターの中を手で示す。
それを見ながら、とりあえずそのかたまりを手に取ってみると、それは小さくむすばれたおにぎりだった。
僕は来たことはないが、この店のランチはコーヒーショップには珍しく、しっかりした定食が数量限定であるらしい。これはその残り物ということだろう。
ぼくは思わず笑顔になり、店長に会釈を返した。
孫のような僕がお金のない苦学生だとわかっているのだ。
それを見て店長がつけまつげをぶつけ合わせるようにウインクをしたので今度は声を出して笑ってしまった。
向こうの席のサラリーマンが一瞬だけこちらを見たようだが、それほど気にしないようで、僕が目を向けると、その眼鏡はまた新聞に戻っている。
あつあつのコーヒーに真っ白なおにぎり。
てんでばらばらな組み合わせで、店の雰囲気とも全然あっていない。
都会とは思えないやさしさにふれて、僕はありがたくおにぎりを口に入れた。
もちろん、会計はコーヒー代だけだった。
また別の日。
その日は二軒目の授業が終わった後にコーヒーショップに向かった。
生徒のテストが近くなり、授業の延長依頼があったので、途中休憩ができなかったのだが、やっぱりコーヒーと彼女の顔が見たかったのが理由なのは言うまでもない。
ガラス扉を開けると、店の中にほかの客の姿はなく、カウンターの中にはウエイトレスの彼女だけがもくもくと食器を洗っていた。
「いらっしゃいませ」
ドアの上のウインドウチャイムに気付いて声を掛けてくる。
「こんばんは」
僕は軽く挨拶し、いつもの席に座った。
「ブレンドでよろしいですか」
水のグラスとともに、聞かれ、僕は笑ってうなずく。
ほぼ毎週、ここに通ううちに、すっかり顔どころか注文するメニューまで覚えられてしまった。
「お待たせしました」
置かれたカップに手を伸ばしながら、彼女に尋ねた。
「今日は店長は」
「店長は、風邪気味だからと、お昼で早退したんですよ」
彼女は困ったような顔で答えた。
派手な見た目で若く見えているが、あの店長はそれなりの高齢だろう。早退するほどの体調不良なら、心配になるのもうなずける。
「大変ですね」
僕も、彼女の表情をまねるように返した。
「こんな日に限って、お昼の客様が多かったので、今やっと洗い物が片付いたところなんです」
てっきりカウンターに戻ると思った彼女がそのまま話し続けるので、意外に思いながらも僕はまた彼女を見た。
こんなにしっかり会話をしたのは、じつはこのときが初めてだった。
「座ってコーヒーでも飲みませんか」
気付くと、僕は一度手に取ったカップを置いてそう言っていた。
いつもは比較的内気な僕としては、ずいぶんと思い切ったなと今でも思う。
「いいですか。ありがとうございます」
彼女はそういうと、入り口のプレートを「close」に変えてから、カウンターに戻ってコーヒーを淹れてきた。
ついでに、僕の分ももう一杯。
自分から声を掛けたくせに、突然の展開にとまどって、僕はそこから何を話したのか。正直覚えていない。
僅かな記憶としては、今日のコーヒーショップが忙しかったこと、彼女がネコ好きで実家の猫が大好きなこと、この店で働く前はコーヒーが飲めなかったこと。
その奇跡のような時間は、一時間くらい経ったところでお開きになり、僕はコーヒーを二杯も飲んだせいか、夜はなかなか寝付けなかった。
そう、このときはたしかにコーヒーには眠れなくする効果が出ていたと思う。
それからもそのコーヒーショップには通っていたが、二人きりでコーヒーを飲む機会はあれっきり訪れなかった。
僕も自分の大学のレポートで忙しく、時にはコーヒーショップのなかでもノートパソコンを開いて忙しくしていたので、向こうも声を掛け辛かったと思う。
季節は夏を過ぎ、すっかり秋になっていた。
ある日、いつものようにコーヒーショップに行くと、ガラス扉は閉まっており、プレートが「close」になっていた。
これまで、この店が閉まっていたことがなかったので、僕はすこし驚いた。
もちろん、年中無休なはずはないし、これまで僕が見なかっただけで休みの日だってあるだろう。
しかし、また次の時も、プレートが「open」になることはなかった。
秋が過ぎ、雪の季節が近づいていく。
生徒の受験が大詰めになり、臨時の追加授業をこなしながら、やっぱりあのコーヒーショップは閉まったままだった。
と、いよいよ来週は生徒の受験本番、つまり、家庭教師である僕の出番も終わりという日。
いつもの習慣でコーヒーショップの前を通ると、「open」のプレートはないが、あのガラス扉が開いているのが目に入った。
僕は、おそるおそる店内を覗いてみる。
と、そこには店内の内装を壊す業者のひとと、手持ち無沙汰にその様子を見ているウエイトレスの彼女の姿があった。
「こんにちは」
彼女は、僕をみるとすこし驚いたような顔で声を掛けた。
「こんにちは。お店、どうしたんですか」
僕は、ほとんど分かりきったことを尋ねた。
「急にお休みしてしまってすみませんでした。店長が体調を崩してしまって、お店も閉めることになったんです」
彼女は、申し訳なさそうに答える。
もちろん、彼女の返事を聞かなくても、作業の様子を見ればリニューアルオープンの準備には見えない。
「店長、そんなに悪いんですか」
僕は、声が詰まるのを抑えながら尋ねた。
あの元気な店長が、ばちんとウインクする姿が頭に浮かぶ。
「いえ、体調は落ち着いているんですよ。でも、もうお歳だからって。私ももう仕事じゃないんですけど、最後くらい手伝おうかなって」
彼女は、困ったように笑っていった。
引き際の良さも、さすがは店長だ。
「僕、このあと授業があるんで」
「あ、はい。お元気で」
彼女が元店内に戻りかける。
「いえ、終わったら、どこかでコーヒーを飲みませんか」
僕は慌てて引き止めるように、その背中に声を掛けた。
驚いた彼女が、振り返って笑顔でうなずくのを確認して、僕は受験前ですでに緊張しているだろう生徒のもとに向かった。
「あのあと、君は待っていなかったんだよな」
僕がリビングにインスタントのコーヒーを二人分淹れて戻ると、彼女は何の話かと顔をあげてこちらを見た。
「ほら、店の閉店が決まったとき」
「ああ、あれはあなたがどこで何時にって言わなかったから」
「いや、その前に授業後に店に行ったこともあったから大体わかると思って」
僕が最終にしてもっとも気の入らない授業を終えて元コーヒーショップに戻ると、彼女はもとより作業の業者もその日の仕事は終わったのか、誰もいなくなっていた。
「あのときの僕の顔を見せたかったよ」
「うん。見たかった」
次の日。もやもやを抱えたままもう一度、はじめてついでではなくその場所を訪れると、彼女は前の日と同じようにそこにいて、悪びれもせずに笑いかけてきたのだった。
「まあ、会えたからよかったじゃない」
あっけらかんと笑う彼女の顔を見ながら、僕は自分が淹れたコーヒーをすする。
あの店長のネルドリップとは、まったく違う飲み物のような黒い液体を。
「コーヒーを夜に飲むのは、頭が覚醒するから安眠には良くないんだそうよ」
「そうかな。僕はよく眠れるけど」
そう、彼女と二人、ゆっくり飲むコーヒーには、どう考えても安眠に誘う安心成分しか含まれていないと思うのだ。
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