「モカを下さい」
「かしこまりました」
もう40年は経つだろうか。私はこの喫茶店の常連だ。というより、このマスターの常連だ。マスターが修業中のウェイターの頃から、月に一度、必ず大勢の友達と一緒に通っている。ただし、マスターとは、ほとんど会話らしい会話をしたことはない。
私はこのマスターに憧れていた。20歳のあの頃からずっと。
若い頃、マスターは修行として喫茶「ルマン」にいた。蝶ネクタイとベスト、ポマードできっちりと整えられた黒い髪が、大人の男という感じで、私は一目で恋をしてしまった。
しかし、私はすごく古いタイプの人間だった。みんながヒッピースタイルと称して髪をだらしなく伸ばしているのも、ミニスカートを履いてお尻をバッグで隠しているのも、恥以外の何者でもないと思っていた。
その頃、時代錯誤な花嫁修行に励む私は、火曜は和装でお花を習いに行っていた。喫茶店に行く日は火曜のお稽古後と決めていた。他の服は平凡だし、かといってミニスカートなんて履けない、いや、絶対履かないしとやかな自分をマスターに見て欲しかったから。
それから、喫茶店には絶対に1人では行かないと決めていた。女が1人で喫茶店なんて、いかにも物欲しげだし、なにより、マスターへの想いに気付かれて卑しい女だと思われるのが怖かったから。
そして、注文はモカ一辺倒。なんだか、ブレンドやアメリカンよりカッコいい気がしたから。コーヒーを何も知らないおバカさんな女だと思われないためだ。
なぜ、そこまで「そんな女じゃない」自分を意識していたのか?
それは、「そんな女」がいたからだ。つまり、恋敵がいたのだ。…正確には、私の横恋慕だったのだけれど。
いつも1人で、文庫本を片手に、ミニスカートで高いカウンターチェアに腰掛けて足を組み、気怠そうに文庫本を読んでいる。どうかすると、タバコまでふかしていた。いや、分かってる。別に珍しいタイプではない。その当時、そんな女の子は街に溢れていた。みんなすらっと長い足を短いスカートから出して、格好のいいブーツを履いていた。
彼女は高校の同級生だった。話したことはなかったけれど。難関大学に通っていると聞いたことがある。
私は彼女のようにはなれなかった。
祖母や母の言う事を聞いて、せっかく勉強して大学合格間違いなしと言われていたのに、大卒じゃない方が嫁の貰い手があるという理由で進学しなかった。ミニスカートなんてアバズレの着る物だと言う父の言葉に、頷いて同調することしか出来なかった。私はそういうタイプの人間だった。
一度、家族で夕食を取っている時に、冗談めかして、
「アルバイトをしてみようかな。喫茶店のウェイトレスとか」
と言ってみたら、場の空気が凍りついた。さらには、食後すぐに祖母から小遣いを渡された。
「時代が変わって、おばあちゃんの感覚がズレてたみたい。あんたの小遣いは足りんかったんだねぇ。気が付かなくてごめんよ。」
だから働きになど行くんじゃない。と祖母の目が言っていた。
お花のお友達も、お料理教室のお友達も誰もみんな私と似たり寄ったりみたいだった。そんな生活に不満も、疑問も抱いていないように見えた。今思えば、あれだけ女性の社会進出が当たり前になってきていた時代なのだから、内心不満を抱いていた者もきっといただろうと思う。しかし、口に出して聞くことすら憚られた。
「ねえ、ミニスカートってステキじゃない?」
「ねぇ、たまにはディスコに行ったりしてみたくない?」
あの子は違った。
毎週末、ディスコに行って、大騒ぎしているらしい。男女問わず友達も多そうだ。何より、カウンターに座って本を読んでいると、彼が話しかけるのだ。私の憧れているウェイターの彼が。
「今日は何読んでるの?」
「それ面白い?」
「今度オレも読んでみようかな」
彼女はチラッと斜めに上目遣いをし、クスッと笑うと、
「ブコウスキー」とか
「まあまあくだらない」とか
「読み終わったら貸したげる」とか
まんざらでもなさそうなのだ。
私は思った。せめて、彼女が彼を下らないと思ってくれたていたら。せめて洟もひっかけないような態度にでてくれたなら。
また別の日はこう思った。あんなに愛想振りまいちゃってみっともない。きっとすぐに飽きられちゃうわ。
色んな気持ちが渦巻いて、自分がすごく嫌な人間になったみたいだった。この気持ちが嫉妬だと言うことに、私は気付いていなかった。ただただ、自分が正しいように気分が高揚したかと思うと、すぐに萎んで惨めたらしい、いやらしい人間に成り下がったように思えて、自分を嫌になったりした。
間も無く、私は祖母の勧めで、近所の医者の息子で医者の卵と見合いをした。医者の卵は一目で私を気に入り、とんとん拍子で縁談は進んだ。花嫁修行仲間は羨ましがってくれ、家族も鼻高々で、私に祝いを述べた。
私はというと、こういうものだ。と無感動に考えていた。こういうものだ。私にロマンスは向いていない。私に恋愛結婚も向いていない。カウンターチェアに腰掛けてコーヒーを注文することすら出来ないのだから。
ある夜、私は部屋で嫁入りの準備をしていた。実家に残して行くもの、嫁ぎ先に持って行くものを仕分けしながら、ふと、日記帳を手に取った。この日記は、実家に残して家族に見られても困るけれど、夫に見られるのはもっと困る。かと言って、捨ててしまうのは心苦しい。だって、誰にも話さなかった恋心や、あの喫茶店に行った日付、勉強の楽しさ、その他色々な個人的な気持ちがここにだけ、書かれているから。
ここにしか、本当の気持ちを残していなかった自分に、私は愕然とした。なんだか、ちゃんと生きていないみたい。ミニスカート履いたり、ラッパみたいなズボンを引きずったりしてるより、私の方がみっともないみたい。
そこで、私は夜も8時を回っていたが、コッソリ家を抜け出し、あの彼の居る喫茶店へ向かった。暗い夜道は怖かったけれど、コーヒー豆を焙煎する香ばしい香りが道のこちらまで漂っていて、なんだかホッとした。コーヒーは香りまで気持ちを癒してくれるみたい。今なら話が出来る気がした。
お嫁に行くこと。あんまり行きたくないこと。ミニスカートを本当は履いてみたかったこと。平和や政治について、自分なりにコッソリ意見があること。彼にずっと憧れていたってこと。
カランコロンー。カウベルを鳴らしてドアを開けると、カウンターには、彼女が1人腰掛けて、私の憧れの彼と楽しそうに話をしていた。
私は、カウンターに座ることすら出来ず、1人なのに奥の2人掛けのテーブル席に腰掛けて、追ってきた彼に言った。
「モカをください。」
「かしこまりました。」
その日のモカはいつもより酸っぱくて、一人きりで本も持たない私は手持ち無沙汰で、しかも、カウンターで話をする彼女はとても楽しそうに見えて、なんだか、こんなもんかなぁ。なんて、コーヒーカップを眺めながら考えていた。
結婚生活はとても穏やかなものになった。私たちは2人の男の子と、1人の女の子に恵まれ、夫は開業医としてよく働き、月末は保険の計算に私を借り出し、それが済むと労をねぎらうために色々なレストランに連れて行ってくれた。
義理の家族も皆優しく、週に一度お花に通う習慣は結婚後も続けさせてくれた。私は、お花でも、テニスでも、お茶でも何でも構いはしなかったんだけれど、兎に角週に一度は外に出て、月に一度はお友達と一緒に喫茶店へ行くことにしていた。
あの日と同じ様に、何も話しかけられないくせに、あの日と同じようにミニスカートも履けないくせに、相変わらず彼のお店に行き、モカを注文していた。
時は経ち、ミニスカートなんて履いたら公害って年齢になった。でも、今また、同年輩の仲間たちはミニスカートを履いたり、好きな服を着て老後を謳歌してるみたい。
この歳になっても、やっぱり私は古いタイプのまま。そして、相変わらず、憧れの気持ちを秘めて彼の喫茶店を訪れる。昔と何も変わらない。
娘に先週言われた。
「ママってば、老けてはいないけど、なんていうか…コンサバすぎない?」
つまり保守的すぎるということか。たしかに、飲み物も、ライフスタイルも、何もかも変化を極力抑えてきたから。そして、その娘の言葉には、少しバカにしたようなニュアンスが漂っていた。
その言葉に触発された訳ではないけれど、今日は思い切って変えてみることにした。喫茶店には1人で訪れる。ミニスカートは無理だけど、洋服を着る。カウンターに座る。モカは頼まない。メニューをよくよく眺めてコスタリカを選んだ。そして、彼に話しかける。
「今日は寒いですね。」とか、
「オススメはなんですか?」とか、
なんでもいい。なにか話しかける。なにか。なんでも。
「コスタリカを下さい」
結局言えたのはそれだけだった。注文だけ。私っていつもそうなんだ。
「かしこまりました。」
彼が、豆を挽く。ネルをドリッパーに載せ、細く細くお湯を注ぐ。変わらないけど、いつもとちょっと違うコーヒーの香りに、
「ま、少しだけ変われたか…」と諦めかけた頃に、彼から話しかけられた。
「今日はお着物ではないんですね。」
私?私に話しかけてるの?私の心臓は少女の様にジャンプする。
「ええ、今日はお花の教室のない日なので。」
「家内が、あなたの和装に憧れると申しておりました。」
「え…」
「家内、高校の同級だそうなんですよ。奥様と。」
「まあ」
知っていた。彼女がそのまま彼と結婚したこと。でも、知らなかった。私の和装に憧れていた?
「いつも凛としていて、ステキって。うちのはおしとやかなタイプとはとても言えませんからね。ははは。」
いえいえと首を振るくらいしかできないまま、話を聞いていると
「僕たちウェイターも、和装でいらっしゃる奥様方に憧れておりました。今日、お話しできて、とても光栄です。」
「私こそ、私こそ憧れていたんです!あなたにも!奥様にも!」
言いたかったけれど、言えなかった。ただ、
「そんな、まさか、ほほほ」
なんて笑っていただけだった。
そして、差し出されたコーヒーをそっと口に含むと、深い酸味に程よい苦味の、とても複雑で新鮮な味がしたのだった。
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