コナコーヒーの香り

コーヒーと恋愛
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誰でも突発的な行動に出る事はあるだろうけどまさかこんな事になるとは思わなかった。小さな旅行カバンを持って地下鉄の駅に降り立つ。もうすぐ飛行機に乗って、7時間後には私はハワイにいる。
かつてないほど気持ちがはやる。時間に余裕があるのはわかっているけど私は走り出した。
一ヶ月前。私はプロポーズ受けて、仕事を辞めた。一回り年下の就職したばかりの彼氏。子供のような素直さに何度救われたかわからない。結婚する事に迷いはなかった。

仕事は結婚生活を始めてからライフスタイルに合わせて決めようと思っている。今は束の間の休息を思いっきり楽しみたい。仕事に縛られていない今、自由な時間がたっぷりある。そう思っておしゃれをしてノープランで街に出てた。

新しいワンピースを買った。白にしたのはウェディングドレスを意識しすぎか。買ったものにその場で着替えるのは浮かれすぎているかもしれないが、今の気持ちを満喫していたい。いい買い物に満足した私は、喫茶店で気持ちを落ち着けて帰ろうと思い、よくいくお店に向かった。

知っているお店はここから5分くらいか。でも今日は気持ちにも時間にも余裕がある。ちょっぴり遠回りしていつもと違う道を通ってみようかな。そう思って小さなビルの隙間を縫ったような路地裏に入ってみる。

入ってすぐに甘い香りがしてきた。甘いけれどもこれは間違いなくコーヒーの香り。素敵な香り。それだけで心は決まる。私はすぐ近くにあるであろう喫茶店を探した。

赤い立て看板に
Kona coffee
の文字が目に入った。甘い香りは確かにここから香ってくる。

コナ・コーヒーはハワイのコーヒーということは知っているけど、飲んだことはない。そのコーヒーはこんなに甘い香りがするものなのだろうか。

お店のドアを開けるとコロン、と古風なベルの音がなり、私より少し年下と思える長身の男性が出迎えてくれる。白いシャツに黒のパンツというカジュアルなファッションで、一人しかいないようだから店主なのだろう。
入ってみると、向かい合ったソファー席が5席、という小さなお店だった。お客さんは私の他に誰もいない。一番奥の席に通されて、ソファーに腰掛けた。そして早速、コナ・コーヒーをオーダーした。

店内はあの甘い香りで満ちていた。コーヒーを待っている間、店内を見渡してみる。私が入ってきた入り口には金色の薄いカーテンがかかっていて、そこから漏れる僅かな光が入り口に薄い影を作っている。

店内のテーブルとソファーは深い茶色の木で出来ており、壁も同系色。ソファーの腰掛けと背もたれの部分は赤のビロード。少々暗めの照明が、店内の色味とよく合う。ソファー席から正面に位置するカウンターに目を向けると、店主の持つケトルから湯気が上がっている。カウンターもまた、同じ深い茶色の木製だ。ただそこには何も置かれておらず、その奥で店主が私のコーヒーを準備をしている。
壁には絵のひとつもかかっていない。カウンターの後ろには飾り棚らしきものがあるが、必要であろうコーヒーカップとソーサーだけが数組並べてあるだけで、しかも全て同じもの。

音楽がかかっていないのはとても嬉しかった。私は音楽がかかるお店が苦手だ。理由は自分の思考に集中できないから。考え事をする時、リラックスしたい時はより無音に近い環境がいい。そして今このお店には私以外のお客さんがいない。路地裏にあるので外の喧騒はほとんど聞こえてこない。正にベストな環境。インテリア要素が少ないのも、気にすることが少なくて良いように思える。

あの甘い香りに誘われてみて正解だった。ラッキーだったな。最近は幸せずくしだ。新しいワンピースを着て緊張していた身体が、ゆったりとした呼吸に変わっていくのを感じていると、店主がコーヒーを運んできた。

あの甘い香りがより強く漂ってくる。
「お待たせしました、コナ・コーヒーです。」
彼が銀色のトレンチに乗せられたコーヒーを持ち上げて私の前にそっと置いた。
「ありがとうございます。」
彼を見ると、彼は満面の笑みを浮かべている。いつも無邪気な彼氏を思い出した。
私も笑みを返す。
「ごゆっくりお過ごしください。良かったらお味の感想を教えて頂けませんか?」
と彼が言った。
「はい、ではブラックでいただきます。でも私は猫舌なの。ちょっと待って下さいね。」
そう答えると、彼ははい、と答えてその場に跪いた。ここで待つのかと少し驚いた私の様子を察したのか、
「すみません。ちょっと、一瞬外の空気を吸ってきます。朝からお店にこもりっきりだったので。」
と言ってお店の外に出て行った。入り口に立って空を眺めているようだ。
確かにこもりっきりだと外に出たくなる気持ちはわかるが、お店にお客さんを一人残して外に出るのは不用心なのではと思った。もちろん私は何もしないけど。感想が欲しいって事はバリスタとしてのやる気がすごくある人なのかな。まぁいいか。
目の前に置かれたコーヒーに目を落とす。面白い事にコーヒーカップの縁が、緩い曲線でハート型を描いている。棚に置かれたカップは普通の丸いカップなので、女性客向けのサービスなのだろう。先程の跪く動作といいちょっとキザな人なのかもしれない。ラテアートを頼んだら綺麗なハートを作ってくれそうである。思わずクスッと笑ってしまった。
その時、コーヒーから漂ってくる香りが甘いだけでなくフレッシュな苦味を帯びている事に気が付いた。淹れたてはこんな香りがするんだと思って堪能する。先程よりもさらにリラックスした私の体は、このお店全体の空気と馴染んできているように感じた。

2分ほど経っただろうか。コロン、と音がして彼が戻ってきた。
「そろそろ飲めそうですか?」
と私に聞いて、また私の前で跪く。
ちょっぴり笑ってしまったけど、彼がそれを気にする素振りはない。やはり慣れているのだろうか。
「いただきます。」
私はコーヒーカップの持ち手に指を通して左手を添えた。そのままゆっくりと唇を縁に付けてコーヒーカップを傾ける。でも。コーヒーカップをソーサーに戻した。
「ごめんなさい、私にはまだ熱いみたい。もうちょっとだけ待たせてもらいます。」
それを聞くと彼はにっこり微笑んだ。
「わかりました。」
その言葉を聞いた時、私はこのお店に入って初めて彼の顔をしっかりと見た。彫りの深い細い目鼻立ちに細い目をしていて輪郭がシャープ。ウェーブのかかった茶色い髪の毛はオールバック。薄い唇の奥には真っ白で綺麗な歯が並んでいる。ハーフだろうか。私がコーヒーを飲むのを待ってくれているし、またお店に外に出て貰うのもなんだか悪い。少し話してみようかと思った。
「ハーフですか?」
「はい、日本とアメリカのハーフです。アメリカというか、ハワイなんですけど。」
「ああ、だからコナ・コーヒー?」
「はい、僕はこのコーヒーが一番好きなんですよ。純度の高いコナ・コーヒーが市販品ではなかなか珍しくて。それでこのお店をやっているんです。」
「素敵ですね。好きなことをお仕事に出来るのはとても幸せなことですよね。」
「ありがとうございます。ただ、やっぱりハワイでやりたいんですよね、お店。」
「そうなんですか?それはどうして?」
「母の実家があるので何度かハワイに行ったことがあるんですけど、向こうの方が気持ちがゆったりするというか。日本はどうしても騒がしくて。こちらで生まれ育ったのでそのままバリスタの勉強をしてお店まで出しましたけど、ハワイのゆったりした空気での中で飲んだ方が美味しく感じるんですよね、何故か。」
「そうなんですか。それは是非、私も行ってみたいな。まだ行ったことがないの。」
そろそろいいかなと思い、もう一度カップを両手で持ち上げて唇に近付ける。うん。今度は丁度いい温度。コーヒーを少しずつ口に含む。先程感じた苦味のある香りは口の中でまろやかに変化する。甘い香りは相変わらず漂っている。とても心地が良い。
彼が口を開く。
「良かったら」
一口分のコーヒーを口に含んだ瞬間だった。
「僕と、ハワイに住みませんか?あなたはとても美しい。」
コーヒーカップの向こうにちらりと見える彼はまたしても満面の笑みを浮かべ、黒い瞳が眩しく輝いていた。
私は男性に口説かれるのは慣れている。美人だとかわいいだとかいう言葉はもう聞き飽きているし、どんなに愛していると言ってくれても男性は目移りする生き物であることも学んできた。それでいいと思えるようになったし、それを受け入れてもいるつもりだ。彼氏のことはとても愛している。彼氏に今後何があっても、それが心の変化であっても全て受け入れる覚悟が持てるから、愛していると感じることが出来るのだ。彼氏を一生愛したいと心から思っている。
私が思いっきり吹き出したコーヒーは彼の白いシャツと私の白いワンピースに茶色いシミを沢山作ってしまった。彼の顔にもコーヒーがかかっているし、私の顔も間違いなく同じ様な状態だ。そして咳が止まらない。彼が、ごめんなさい、大丈夫ですか、と言いながら私の背中もさすってくれる。

苦しくて涙が流れてきた。
咳が落ち着いても涙は止まらない。なんでこんなに驚いているんだろう。これじゃ本気にしているみたいじゃない。こんな事今まで何度も言われてきたはずなのに。男性の言う事をすべて鵜呑みにするのは馬鹿らしいと思っているのに。しかも会ったばかりの相手に。こんな事をしてしまって本当に恥ずかしい。

「受け流されると思っていました。でも真剣に受け取ってくれて嬉しいです。」

そう、受け流すべき言葉なのそれは。だって信じられないの、今会ったばかりだから当たり前じゃない?真剣に受け取ったの?私が?だからあんな反応をしてしまったの?

「さっき言った事、僕は本気です。替えのお洋服を買ってきます。」

本気ってなんなの?どういう事なの?今まで何度その言葉に惑わされてきたと思ってるの?私には男の人の言う本気の意味がわからないの!

私の心の混乱をよそに、彼はお店の奥へ消えて行き、戻って来た時には新しいシャツに着替えていた。そのまま外に出て、鍵を掛けて出掛けて行ってしまった。

涙が止まったのはバッグの中で携帯電話が震えた時だった。メッセージを受信したらしい。ようやく我に返って、メッセージを見る。

『りんちゃん、指輪いつ買いに行く??』

りんちゃんは私のこと。彼氏からのメッセージだった。
指輪。そうか私結婚するんだった。なんだか他人事みたいだな。
そんな考えが胸をよぎった。
目を上げると汚れたハートのコーヒーカップが見える。携帯電話をバッグにしまい、ハンカチで顔を拭いてソファーに座り直す。
冷めてしまったコーヒーをゆっくりと飲む。口の中に広がる味が、思っていたより苦く感じるのは冷めてしまったからだろうか。酸っぱく感じるのは涙のせいだろうか。そしてあの甘い香りも足りない気がする。
それでも二口、三口、と時間をかけて飲む内に段々と心が落ち着いて来るのを感じた。本当にこの場所は素晴らしい。ただ甘い香りが足りないだけだ。

しばらくすると、あの甘い香りがしてきた。鍵を開ける音がして入り口のベルが鳴る。私は待ち切れず、立ち上がって入り口に駆け寄る。
この香りに包まれたくて堪らない。
その香りを求めて走る。それが私の全てだ。

あの香りが近付いてきた。こんなに素敵な香りにどうして誰も振り返らないのだろうか。きっとそれはこの香りを感じることが出来るのが、世界で私だけだからだ。
彼が振り返った。

今の私は動物のようだと思う。ただただ自分の好きな香りを求めて生きているのだ。あの日あの店でコナ・コーヒーを飲んでから、私は考えるのを止めた。心のままに生きる心地良さを知ってしまったからだ。感じるままに、求めるままに生きる事を覚えてしまった。そこには愛の意味はいらない。相手を理解しようと努力する事もない。

私は彼に告げる。
「私、あなたのその香りがとても大好き。好きすぎてあなたの他の部分にはあまり興味がないの。」
彼は答える。
「恋をすると周りが見えなくなるのは当たり前だよ。僕だって君がとても美しいから恋をしたんだから。それにしても毎日コナ・コーヒーを飲んでいて本当によかった!」

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