朝の陽ざしと小鳥のさえずり、珈琲の香り。
「沙織、起きなくていいの?間に合わないよ?」
彼がキッチンから顔を出して声をかける。
あくびをしながらキッチンへ向かうと、淹れたての珈琲とトースト、サラダが用意されている。
「うーん、良い香り、いただきまーす!」
毎朝の光景、幸せな毎日。
私は宮川沙織、27歳、都内の商社に勤めるOL。
入社して5年、ようやく仕事にも慣れてきた。
東京営業所に所属しており、私の仕事は営業をサポートする営業事務だ。
営業マンが16人に、営業事務が4人、各担当が決まっているチーム制だ。
「みんな、集合。」
部長の隣には背が高く、細身の男性が立っている。
「今月から新しく東京営業所に配属になった高橋君だ。みんな、頼むな。」
「福岡営業所から異動になりました高橋です。
福岡では5年、新規開拓の担当をしておりました。東京ではまだわからないことも多いので、みなさん色々教えてください。早く東京営業所の戦略になるように、頑張りますのでよろしくお願いします。」
うちの会社は異動が多く、特に、東京営業所は1年に何回か人員が変わる。
私は営業事務なので、異動はなく、入社してからずっと東京営業所におり、今では若干27歳にして東京営業所のお局様とからかわれることも多い。
「宮川くん、営業所を案内してあげて」
そのため、新人の案内は私の役目だ。
「よろしくお願いします。」
彼は軽く会釈をしたので、私は立ち上がった。
「では、案内しますね。」
「宮川さんは、東京営業所は長いですか」
「そうですね、入社してからずっとです」
「3年くらい?」
「いえいえ、もう5年になります」
「それは失礼しました。」
「大丈夫です。頼りないですよね。」
「いや、僕よりもかなり若く見えたから。」
「おいくつなんですか。」
「僕は32になるよ。入社してちょうど10年、宮川さんから見たらもうおじさんだね。」
私は彼を見上げた。
目が合うと、彼は恥ずかしそうに笑い、その人懐こい笑顔は好感が持てた。
少し恥ずかしくなって目をそらした。
「あ、私、珈琲淹れますね」
「ありがとう」
高橋さんの営業事務は私が担当することになった。
「めぐみの結婚に、乾杯」
今日は同期のめぐみの結婚祝いだ。
久しぶりに同期3人集まった。
めぐみは総務部の受付嬢で、もう一人の同期の加奈子は経理部だ。
同い年ということもあり、入社してすぐに意気投合し、旅行に行ったり、たまに集まって飲みに行く、なんでも言い合える良い仲間だ。
めぐみは最近婚活に力を入れており、半年前にパーティで知り合った男性とお付き合いを始め、先月プロポーズされたそうだ。
「やっぱり、めぐみが一番だったか」
加奈子は本当にうれしそうにビールを飲んだ。
「加奈子はどうなの?」
「私はまだ独身を楽しみたいもーん。」
口をすぼめておどけて返し、私を見た。
「沙織が次じゃない?」
「うーん、どうかな。」
「だって、入社する前から付き合ってるじゃない?一緒に住んでるんでしょ?」
めぐみが枝豆を口にしながら身を乗り出してきた。
最近はすぐその話題になるなぁと、私は言葉と一緒にビールを飲みこんだ。
「沙織もそろそろどうするか決めたほうがいいよ。もう次に行くなら決めたほうが。」
「今日はめぐみのお祝いだから私の話はいいの!」
自分が一番よくわかっている、そう言いたいのを抑えた。
彼はタクミ、25歳、大学時代の後輩で付き合ってもう6年になる。
小さな印刷会社に勤務し、デザインの仕事をしている。
いつかデザイン会社を立ち上げたいという夢があり、そんな夢の話をキラキラ話す横顔に惹かれた。付き合い始めたころは学生ということもあり、毎日が楽しくて仕方がなかった。私が先に働き出してから会えない日々も増え、ケンカすることもあったが、別れ話にまではならなかった。彼が働き出してすぐ、お互いの勤務地も近いことから、都内で一緒に暮らすことを決めた。一緒に暮らすことを決めたときは、結婚を考えているのかと思い、デートでは毎回プロポーズを期待してドキドキしていたが、彼からは何も言わなかった。私も最初は期待していたが、徐々に生活に慣れてしまい、今では結婚の話は禁句のように感じてしまっている。
「ただいまー」
ドアを開けるとお風呂あがりのタクミがいた。
「おかえり、結構飲んだ?」
「めぐみのお祝いだもん!飲まなきゃ」
「はいはい。めぐみちゃんが結婚だっけ。」
「そう、もうラブラブみたいで自慢されちゃった。
沙織はどうなの?2人から攻められちゃって大変だったよ。」
「そっか。最近結婚ラッシュだね。
明日も早いんでしょ、早くシャワー浴びて寝たほうがいいよ」
すぐ話をそらす、そう言いたかったけど、言葉が出なかった。
「うん、そうだね」
私は彼の背中をじっと見つめたが目が合うことはなかった。
「先に寝てて。おやすみ。」
「宮川さん、宮川さん・・・」
「あ、すいません。」
「どうしたの?ぼーっとして。」
見上げると高橋さんが書類を持って私の机の目の前にいた。
「昨日、寝れなくて、すみません。」
「そっか、僕で良かったら何か相談に乗ろうか?っていってもまだまだ宮川さんに仕事を教わっているところだから、僕が教えてあげることなんてないか。」
高橋さんは肩をすくめて微笑んだ。
「いえ、高橋さん異動して3か月しか経ってないのに、たくさん新規見つけて。このままだと、東京営業所のナンバーワンになっちゃいますね。」
「宮川さんのおかげだよ。」
「私は何も。」
「そんなことないよ。宮川さんの淹れてくれる珈琲はいつも僕に元気をくれるんだ。」
「え。」
「いや、変な意味じゃなくて、いつも宮川さんの淹れてくれる珈琲は美味しいから」
高橋さんは大振りに手を振って顔が真っ赤になっている。
「ありがとうございます。」
そんな様子を見てつい笑ってしまった。
「参ったな。この書類、頼むね。これから営業行ってくるね」
頭をかきながら、書類を手渡し、高橋さんは去って行った。
珈琲かぁ。
珈琲の淹れ方はタクミから教わった。
彼の淹れる珈琲にはかなわないと思っていたが、自分が淹れた珈琲がほめられるのは初めてで、少し恥ずかしくも嬉しかった。
今度、家でも淹れてみようかなと思った。
帰るとタクミはパソコンで作業しているようだった。
「ただいま」
「あ、おかえり」
タクミはちらりとこちらを見て、またパソコンに目を向けて作業をしている。
昼間の高橋さんの言葉を思い出し私は、
「珈琲いれようか?」
と声をかけた。
「んー、いいよ、ありがとう」
「そっかぁ」
さっきまで楽しかった気持ちがなんだか少し白けてしぼんでしまった。
「今日、会社で珈琲美味しいって褒められたよ」
「へえ、そう」
タクミはパソコンから目を離さない。
「加奈子の部署の新入社員がわがままで大変だって」
「そう」
何を言ってもパソコンに向かったままだ。
「なんか忙しいみたいね」
「あ、ごめん。ちょっと仕事が忙しくて」
こちらを少し向いたが気持ちはこちらに無いように感じた。
「いいよ、頑張って」
一人で珈琲を入れて飲んだが、やはり彼が淹れた珈琲のようには美味しく感じなかった。
朝起きるともうタクミは出かけており、テーブルには「ごめん、先に行くね」と置手紙があった。一人で朝食をとる気になれず、近くのカフェで朝食をとり、出社した。
そんなすれちがいの日々が1か月ほど続いた。
そんなある日、高橋さんからメールが届いた。
「いつもサポートありがとう。お礼に食事でもどうかな?」
私は迷ったが、はいと返事をした。
すぐに場所は追って連絡するとのメールが届いた。
数日後、週末の夜にイタリアンレストランで食事をすることになった。
タクミには会社の先輩と食事に行くと伝えたが、特に何も言われなかった。
もしかしたら引き止められるかもと期待もしていたが、何も気にしていない様子だった。
思ったよりも早く着き、まだ高橋さんは着いていない様子だった。
少ししてから高橋さんが小走りでこちらに向かってくるのが見えた。
「ごめん、待った?」
「いえ、今来たところです」
「なんだか、会社の外で会うと新鮮だね。さぁ、入ろう」
屈託のない笑顔にドキドキしながら、店に入った。
食事はとてもおいしく、会話もはずみ、思ったよりも楽しい時間を過ごした。
「高橋さんて、こんなに気さくな方だと思いませんでした。今日はありがとうございます。」
「こちらこそ、今日は誘ってよかったよ。ありがとう。」
少し照れたように笑い、目があった。
「実は、僕は宮川さんのことをいいなと思っているんだけど、良かったらお付き合いしてもらえないかな。」
「え?」
「もちろん、年齢も年齢だし、社内恋愛でもあるから、軽い気持ちではないよ。」
突然のことに驚き、答えられないでいると、
「ゆっくり考えてくれていいから」と高橋さんはほほ笑んだ。
家に帰ると、タクミはパソコンに向かっていた。
私が帰ったのにも気づいていない様子だ。
なんだか少しイライラした気分になって、
「私たちってなんなんだろうね」
とつぶやくと、驚いた様子でこちらを見た。
「沙織、どうしたの?」
思っていた感情が全て溢れてくるように言葉が溢れてきた。
私のことをどう思っているの、結婚は考えているのか、一方的に責め立てた。
タクミは黙って聞いていたが、答えなかった。
「私のことをいいなと思っている人もいるんだから」
タクミはびっくりしたように私の顔を見た、そして
「沙織の好きなようにしてくれたらいいよ。」
私が思っている答えは返ってこなかった。
翌日から、ぎくしゃくした生活が何日か続いた。
高橋さんからメールがあり、また食事に誘われたが、言葉を濁すと、じゃあ気分転換に珈琲でも飲みましょうと返事があった。
近くの喫茶店で珈琲を頼んだ。
「ゆっくり考えてくれていいから。少しずつ僕のことを知ってくれたらいいから。」
優しい彼の言葉に涙が出てきた。
「ごめんなさい。」
「そうか。困らせてごめんね。これからも職場では変わらずよろしくね。」
いつもより珈琲は苦く感じた。
帰り道、家の近くの駅に着くと、タクミが改札の外で待っていた。
「どうしたの?」
私は驚いて、駆け寄った。
「実は、3か月くらい前から先輩に独立して会社を立ち上げないかと話があって、今日返事してきたんだ。」
「え」
「沙織のこと、考えてなかったわけじゃないよ。でも、落ち着くまでは言えなかったんだ。まだ、どうなるかわからないし、苦労させるかもしれない。それでも、俺は沙織にそばにいてほしいと思ったんだ。」
「結婚してほしい。」
「もう遅いかな?」
思わず涙がこぼれた。私は答えた。
「毎日、タクミの珈琲が飲みたいよ」
「こちらこそよろしくお願いします」
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