大学に合格して地元を離れた私は一人暮らしをするようになった。
一人暮らし先のアパートの周辺を散策していると、こじんまりとしていてレトロな外観のカフェを見つけた。
吸い込まれる様にそのお店のドアを開けたのだけれど、その途端鼻腔をつくコーヒーの香り。
そこはカフェ…というより純喫茶。
カラランという昔ながらのドアのベルが鳴ると、顎髭を生やした私よりも年上のスラリとした男性が顔を出す。
その人の顔を見た瞬間、私の胸がドキンと音をたてた。そう、一瞬で私はその男性に恋に落ちてしまったのだ。一目惚れなんて今までした事ない。決して惚れっぽい訳じゃない。
それなのに、彼は一瞬で私の心を捕らえてしまったのだ。
カウンターとテーブルが4席しかない狭い店内。彼は私の顔を見つめ「いらっしゃい」とニッコリ微笑んだ。
実は、私コーヒーなんてこれっぽっちも好きじゃない。普段は缶コーヒーさえ買った事がない。
でも、今さら間違いましたなんてとても言えない状況だ。彼に促され、私は誰もいない店内の一席に座り、なんとか聞いたことがあるだろう名前のコーヒーを注文した。
お店にはさっきの男性一人しかいない。どうやら彼がマスターをしているお店のようだ。彼がコーヒーを運んできてくれたけど、私は緊張して彼の目を見る事すら出来なかった。
私、どうしちゃったんだろう。胸のドキドキが止まらない。彼と二人っきりの空間に息が苦しくなる。
「学生さんだよね」ふいに彼が声をかけてきた。
「あ、はい、そうです。大学1年で、あの、この近くに引っ越してきて…」
しどろもどろに答える私。
あたふたする私とうって変わって、笑顔で彼は気さくに色々と話しかけてきてくれた。
初めてお店で注文して飲んだコーヒー。
味はやっぱり苦くて美味しさなんて全く分からなかったけれど、彼が運んできてくれたコーヒーはふわりと優しい香りがした。
それから、コーヒーが飲めない癖にそのお店の常連になった私。
そのコーヒーショップには、マスターの他に一人だけアルバイトの子がいた。私より1つ上の大学生2年生の男の子。愛想の良いマスターと比べてカッコいいけれど、ぶっきらぼうでちょっとツンツンしている彼がはじめは苦手だった。
このコーヒーショップは、決してお客さんが多くなかった。席が全て埋まっている事なんてほぼない。それでもコーヒーの味は本物らしく、何人か常連さんはいるみたいだったけれど。
お客さんが私しかいない時には、3人でよくお喋りを楽しむまでになった。料理好きのマスターからはお勧めのレシピを教えて貰ったり、安達君はよく私の事をからかって馬鹿にしていたけど。
いつの間にかお店は私にとってとても居心地の良い大切な場所になった。相変わらずコーヒーの味は分からなかったし、マスターの笑顔にいつもドキドキしていたけれど。
季節は巡り、私が初めてこのお店を訪れてから既に1年以上の月日が経過していた。ある日のコーヒーショップ。マスターはちょっと用事があると店を空けていて、他にお客さんのいない店内で私はお店の片隅で勉強をしていた。
その時、テーブルに広げたテキストの上に影がかかる。ふと目線をあげると、安達君のまっすぐな視線とぶつかった。安達君はいつの間にか私の直ぐ側に立っていた。
「亜美ってさあ、マスターのこと好きなわけ?」
思ってもいなかった彼の発言に、身体中の血が一気に沸騰するような感覚に襲われる。
顔が熱くてたまらなくて、鏡を見なくても自分の顔がユデダコの様になっているだろう事が容易に想像出来る。
「な、な、なんでっ…」何も答える事が出来ない。こんなに取り乱してしまったら、もう言い逃れなんて出来やしない。
「やっぱりな」
安達君は、唇のはしを上げてニヤリと笑った。
「だからコーヒーも飲めないくせに1年以上も店に通ってんだ?」
「え!コーヒー飲めないってなんで知ってるの?」
コーヒーを一度も残した事はない。美味しそうに飲む演技だってもうバッチリなはずだ。
「だって、お前分かりやすいもん。見てればすぐに分かるよ。マスターの事もコーヒーの事も。」
「じゃあ、マスターも気がついてるってこと?」
「あの人、意外とニブいからな。たぶん、気づいてないんじゃね?」
その言葉を聞いてホッとした…のもつかの間、いつから安達君に知られていたのだろうと恥ずかしさでいてもたっても居られない。
「お願い!絶対にマスターには言わないで!」
安達君はちょっと考え込むようにして
「告白とか、しないの?」
「出来るわけないよ!年も離れてるし、私なんて全然子供だし…」
「確かにコーヒーの味も分からないお子様だよな」
彼はフンッと鼻をならした。
「お願い!絶対言わないで…」
「別にいいけど…」
自分には関係ないとばかりに興味なさげに視線を逸らした安達君に安心した。
きっと彼はマスターにこの事を話はしないだろう。彼の事深く知っている訳じゃないけど、人の恋心を面白半分で話してしまう様なそんな愚かな人じゃない事はよく分かっていたから。
そして季節は夏から秋、秋から冬へと変わった。私は後数ヶ月で大学3年生になる。
その日はいつもより寒さが厳しくて、私は駆け足で暖かいコーヒーショップへと駆け込んだ。
マスターは常連さんと話していて、安達君が注文をとりにきてくれてんだけれど、その日の彼は少しいつもと様子が違っていた。
「あのさ、俺、この冬でここのバイト辞めるんだ」
私は驚いてしまったけれど、よく考えると彼は4月から大学4年生。別に驚く事じゃない。
「それでこの店、あんまり客もいないからマスターひとりで大丈夫と言えば大丈夫なんだろうけどさ、お前俺の代わりにここでバイトする気ない?」
「え…?」
「マスターのこと好きなんだろ?今より近づけるチャンスじゃん」私の耳元で小さく彼が囁いた。
ドクン…と胸が高鳴った。
「やる、私ここでバイトしたい…!」
3月、春休みに入るのと同時に安達君はバイトを辞めた。寂しいからたまには遊びにきてよって言ったけど、彼は「気がむいたらな」ってそっけない返事をしただけ。マスターと送別会でもしようかって言ったけど、断られてしまった。
彼があまりにも普通なので、明日から彼がバイトに来ないなんてピンとこない。でも、それから彼が出勤してくる事は当然なかった。
私が初めてこのコーヒーショップを訪れた時と同じ春が再びやってきた。私はそれでもコーヒーが苦手で、その癖コーヒーショップでバイトなんてしている。そしてやっぱりマスターを見る度に胸はときめいていた。
「亜美ちゃん、ちょっと急なんだけど来月この日から1週間お店休むから」マスターがニコニコしながら話しかけてきた。
「実はさ、海外で挙式するんだよね…」
「…え?」
動揺しちゃいけない、普通にしなきゃ。私、普通に笑えてるよね?
「全然知らなかった!おめでとうございます!」
自分の気持ち伝える前にふられちゃった。でも、こんなに幸せそうな顔していたら、伝える気にもなれないや。彼女のこと本当に好きなんだね。
「そういえばさぁ、○○ちゃんは安達君とはどうなの?もう、つき合ったりとかしてるのかな?」
「えっ!」
「あれ、もしかしてまずいこと言った?言っちゃった、よね…。あー、もうなんか自分の事ですっかり浮かれちゃって…はぁー」
マスターは一人赤くなったり青くなったりして、最後には顔を覆ってはぁ~と大きなため息を吐いた。
「…実は安達君、亜美ちゃんに一目惚れだったんだよね。それからずっと…君のことをね…」言葉を濁すマスター。
身体がピクリとも動かない。
マスターが私をじっと見つめる。
「でも、その顔じゃ全然聞いていないんだね…。あんなカッコ良くて俺様みたいな奴でも好きな子には臆病になるんだな…」独り言みたいにポツリと呟いた。
「あいつ、学校とか家の近くのバイト先だといつも大学の女の子が邪魔しにくるからって、こんな遠い店なんかで働いてたんだよ。でも、そっかぁ…」
安達君が私に一目惚れ?それじゃあまるで私と一緒じゃない。
私がマスターの事を好きだと気がついた安達君。コーヒーが苦手だって気づいていた安達君。
ねぇ、私が分かりやすいんじゃなくて、もしかして私のこと見ていてくれたの?
私がマスターの事を視界の隅でずっと追っていたみたいに…
もう、その後の事はよく覚えていない。気がついたら私は自分の部屋のベッドの上。一目惚れした好きな人が結婚してしまうというのに、私が考えている事と言ったら安達君のこと。
あの時彼はどんな気持ちだった?どんな顔をしていた?
いつも私に小学生みたいな意地悪言って、からかってはフンッて笑っていた。でも、その瞳の奥はいつも優しかったから、私、全然嫌じゃなかったよ。
口の中にしょっぱい味が広がった。
私はいつの間にか涙を流していた。この涙がなんなのか私には分からない。
それから、私は3年の終わりまでコーヒーショップで働いた。マスターに安達君の連絡先を聞けば教えて貰えたかもしれない。だけど私はそれをしなかった。彼もまたコーヒーショップを訪れる事は、一度もなかった。
それから、マスターは奥さんの地元に帰える事になってお店は閉める事になった。私が卒業する頃には、コーヒーショップはパン屋になっていた。
コーヒーショップと違っていつもお客さんで賑わっている。
私ももうじき地元に帰る。きっともう二度とマスターにも安達君にも会うことはないだろう。
私は今でもコーヒーの美味しさを分かってない。でも、もうすっかりコーヒー中毒者。毎日1杯のコーヒーを飲まなきゃ落ち着かない。
コーヒーを飲むといつも「あの人」の顔が思い浮かぶ。口中に広がる苦味と酸味と一緒に、あの、彼の顔が…。
コメント