コーヒーはお好きですか?

コーヒー好きの私は、毎朝「準備中」の札がかかった喫茶店から漂ってくるコーヒーの匂いに励まされて仕事に向かう。いつかこの喫茶店でコーヒーをゆっくり飲んでみたいと思っているけど、帰宅時間には閉まっている。一度お店の前でエプロンをつけた年配の男性を見かけた。彼が喫茶店の経営者なのだろう。朝早く開店して、夜は早く閉めてしまうみたいだ。

 
30才を目前のOLの私。もともと引っ込み思案で自分から行動を起こすことが苦手だ。
ここ何年かは生活にこれといった変化がないままただ黙々と働き、たまに学生時代の友達と食事をしたり旅行に行ったりするしかたのしみはなかった。
しかし、最近気になる人男性がいる。そういった相手がいるだけで、毎日がとても楽しくなる。
気になる彼は毎朝その喫茶店の前ですれ違う。年齢は多分、同じぐらいか少し上だろう。スーツ姿が様になっている。特別目を引く容姿でもなくかといっておかしいわけでもない。どこにでもいる普通のサラリーマンだ。
毎朝、決まった時間にすれ違うなあぁと思うぐらいだった気持ちが変わったのは、ある寒い日の朝だった。強い風から身を守るように首をすぼめて足元をみて歩いていた私は人にぶつかってしまった。それが彼だ。反射的に「すみません。」と言った私に小さく微笑みうなずいてくれた。たったそれだけ。ほんの一瞬の出来事。だけど、大きな出来事。その小さな微笑みに私の心は奪われた。
それからの毎朝は彼とすれ違う一瞬がとても楽しみになった。風も温かくなり足元ではなく前を向いて歩けるようになったころ気づいたことがある。彼も喫茶店の「準備中」の札に視線が行くことを。彼もコーヒーが好きなのかもしれない。そうだったらいいな。

 
スーツの上着が必要なくなったころには私は彼のいろいろなことが知りたいと思うようになっていた。名前もしらない。年齢も、職場も知らない。もしかしたら結婚しているかもしれない。
強い日差しも弱まり朝晩少し肌寒くなってきたころ、コーヒーを飲むと毎朝反対側から歩いてくる彼の姿とぶつかったときにみせてくれた笑顔を思い出すようになった。もう一度あの笑顔がみたい。彼のことを考える日々が続き思いは大きくなっていく、だけど行動には移せない。「おはようございます。」その一言が言いたい。もしかしたら何か変わるかもしれないと頑張ってみようとする。喫茶店を過ぎたときには「今日も言えなかった」と反省して落ち込むという毎日だ。いい年をした大人が「おはようございます。」も言えないなんて。いい加減自分の性格が嫌になる。
そんな私を神さまは、はがゆく思ったのかもしれない。信じられないことが起こったのだ。
なんと、彼が私の職場に現れた!
私はある会社の事務として働いている。事務員は二人だけでもやっていける小さな職場だ。事務職といってもこのご時世、パソコンや計算ができるだけではいけない。重いものも運べる体力も必要だ。OL歴の長い私はたいていのことはこなせるようになっていたし多少のことでは驚かない。そんな私も彼が職場の入口に立っていたときは驚いた。

 
「こんにちは。」と誰かが入口で言っている。伝票と格闘していた私はもう一人の事務員が銀行に行ったことを思い出し、来客を対応するために席を立った。初対面の人は苦手なのになぁ。そういえば、今日の朝礼で課長が来客があるようなことを言っていたなと思い、入口に向かう。受付嬢なんてものはいない。「お待たせしました。」と言った私の目の前には毎朝すれ違う彼が立っていた。会いたいと毎日思っていたから朝だけでなく昼間にも彼が幻覚として現れたのかと思った。だけど、確かに現実として目の前に立っている。彼は「課長さんとお約束している○○会社の加藤です。」とよく通る声で言った。本当にびっくりした私だったが驚きを顔に出さずに「こんにちは。応接室にご案内します。」と言えた。

 
応接室に案内するため加藤さんの先を歩く私。そういえば、毎朝すれ違うということはお互い反対側に向かって歩いている。
しかし今はほんの何メートルかのことだが同じ方向に向かって歩く。初めてだ。そんな小さな出来事もうれしい。「加藤さん」。あんなに知りたかった苗字。下の名前は何だろう。一つ知るとまた知りたいと思う。人の思いは欲張りだ。「毎朝すれ違いますよね?」この質問が怖くてできない。そんなスキルがあったら毎朝「おはようございます。」と挨拶している。だけど、もし質問して毎朝すれ違う通行人に興味がなく覚えてなかったら?突然こんな質問をされても困るだけだ。「失礼ですが、どこかでお会いしましたか。」と聞き返されたらどうしよう。だけど、もう少し一緒にいたい。応接室まで2キロぐらいあればいいのに。
応接室には課長が座っていた。「木村君、飲み物を頼む。」と部屋のドアを閉めようとした私に課長が言った。いつもだったら面倒だと思ってしまうお茶の準備も楽しくなる。

 
課長にも感謝してしまうから不思議だ。
給湯室でお湯が沸くのを待ちながらお茶の葉っぱの袋を手に持った私はしばらく考えてその袋を棚に戻した。変わりに取り出したものは、私の大好きなもの。これには職場のみんなの休憩時間に飲んだり食べたりするおやつなどの買い物係の権利を活かして自分の好みのものを会社で購入している。休憩中は楽しまなくちゃ。これぐらいは許されるだろう。私は手に持った缶を粉をセットにかけ丁寧に、だけど急いで準備する。給湯室に大好きな匂いがしてくる。
「失礼します。」と言って課長と加藤さんの前にコーヒーカップを置いた。好みがわからないので砂糖とミルクもつけて。カップを置いたとき「ありがとうございます。」と加藤さんに言われた。目が合った。私の心が捕まえられたあの笑顔だ。ドキドキしすぎてカップを加藤さんの前でひっくり返さなくてよかった。その後どのように部屋を出たのかは覚えていない。銀行から帰ってきた事務員に変わり今度は自分が会社宛に届いた荷物の仕分けを始めるために倉庫に向行ってくれと他の職員に言われた。

 

私は頼まれると断れない性格だ。事務所にいれば加藤さんとお話しできるかもという思いを胸に、早く事務所に帰ろうといつもよりかなりまじめに荷物の仕分けに取り組んだ。急いで取り組んでもやっぱりそれなりの時間がかかる。職場に帰ってきたときには加藤さんはもう事務所にいなかった。応接室のコーヒーカップはきれいに片づけられた後だった。砂糖とミルクを使ったのかもわからない。ものすごく残念だ。
「仕分け早かったですね。今日は珍しくお客様にコーヒーを出したんですね。」ともう一人の事務員に言われた。
「お茶の葉っぱが古くなってたみたいだから。今度新しい葉っぱ買っておくね」と嘘をついた。
「お客様、コーヒー飲んでた?」と聞きたかったが聞けなかった。
「そういえば、先ほどのお客様が飲んでください。って缶コーヒーくれましたよ。」と無糖の缶コーヒーをくれた。その缶コーヒーを大事に持って自分の席に戻り、置いた缶コーヒーを眺めながら「おはようございます。」を言えずにいたのに、仕事がからむと「こんにちは。」をあんなに簡単に言うことができるんだ、と思った。明日は、休日で加藤さんとすれ違うことはない。頭の中で今日会ったことを思い出しては喜んだり、落ち込んだり長い週末になるだろう。

 
今日も喫茶店の近くに来るとコーヒーの匂いがしてくる。今週も頑張ろうという気持ちにさせてくれる。だけど、今日はもう一押しの勇気がほしい。私はカバンの中に手を入れた。指の先には加藤さんがくれた無糖の缶コーヒーがある。週末家に持ち帰り缶コーヒーを眺めて過ごした。そして決心した。次に彼とすれ違うときは必ず挨拶をしよう。できることなら「週末、会社で会いましたね。」と言えたら最高だ。こんな会話ができるのは今朝しかない。もちろん缶コーヒーはもったいなくて飲めなかった。今日はこの缶コーヒーが私のお守りだ。「今日こそは私に勇気をください。」
加藤さんがコーヒーの匂いの中を反対側から歩いてくる。今日もチラッと視線の先に「準備中」」の文字を確認したようだ。私が歩きながら深呼吸をして「おはようございます。」
と声を出そうとした瞬間よく通る声で「おはようございます。木村さん、この前はコーヒーを入れてくださってありがとうございます。」と聞こえてきた。
びっくりしてその場に止まってしまった私。加藤さんも私の前に止まった。
「毎朝、すれ違いますよね。」「この前、職場におじゃましたとき毎朝すれ違う方だと気づいたんですけどお話しできなくて。帰るときに木村さんを探したんですけど、事務所にはいないと言われて。そのときにお名前の方もお聞きしました。コーヒーもとてもおいしかったです。」加藤さんが言葉を続けた。

 
「こちらこそ。加藤さん、この前は缶コーヒーをありがとうございました。私も毎日すれ違う方だと思ったんです。」と言いたいけどなかなか言葉がでてこない。無言のまま立っている私に加藤さんは、「それでは。」と横を通り過ぎて行ってしまった。今の会話は本物?私も何か言わないと。加藤さんが行ってしまう。思えば思うほど時間が止まったような気がして言葉がでてこない。そのとき喫茶店のドアが開いた。エプロンを付けた年配の男性が出てきた。開店前の店の周りの見回りのためだろう。いつもより強めのコーヒーの匂いで現実に引き戻される。カバンに手をいれ缶コーヒーを握りしめた。
後から思い返しても信じられない。まさか私にあんな行動ができたなんて。
私はそのまま今、通ってきた道に向き直り加藤さんの背中に手をのばす。彼の背中はすぐそこだ。彼のスーツの端をつかんで私は言う。
「コーヒーはお好きですか?今度の休日この喫茶店で一緒にコーヒーを飲みましょう。」
加藤さんは私の大好きな笑顔で振り向いた。

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