朝、起きてすぐに朝食の準備に取り掛かる。一番にするのはコーヒーメーカーのセッティング。しっかりとドリップで淹れることはもう9年ほどない。
ダイニングにコーヒーの香りが広がり始めてもまだ起きてこないパパと長女を起こしに寝室へ向かうと、同じ寝顔をした長女とパパ。寝相まで同じような格好で寝ているのを見ると、なんだか起こすのも忍びない。そのまま起きるまで見てようかと横に立った。
ベビーベッドにすやすやと寝ているのは最近生まれたばかりの次女。
自分がまさかこんな家庭を持つとは、9年ほど前には思ってもみなかった。
9年前、20代も後半。若い頃に遊んで作った借金の返済に四苦八苦していた。
6畳一間、家賃30,000円の部屋には寝に帰るだけのようなもの。それこそ一日中働き倒していた。
当時勤めていたパチンコ屋さんは驚異の手取り26万円ほど。なのにそのお給金の半分は返済に、そして半分は生活費に、と消えていっていた。
そんな人生に、唯一といっていい癒しはドリップで入れるマグカップ一杯分のコーヒー。
もちろん、ブラックで楽しむ。部屋いっぱいに広がるコーヒーの香りだけは仕事へ出かける前、仕事から帰ってからと、日に二度は欠かさなかった。それもこれもこの、物悲しさと孤独と、疲労の色だけが詰まった6畳にとってはその香りだけが唯一、“明るいもの”だったから。
生活費や食費は切り詰めつつもコーヒーの豆や道具にだけはこだわった。
一口コンロに乗ったドリップポットが物悲しさを強調したけれど、そんなことは香りさえ広がってゆけばすぐに消えた。
一生、このまま独りなんだろうな…。
生活に余裕がなければプライベートにも余裕なんてない。
出会いもなく、職場では必死に働いていたから周りには怖がられていたほど。
一生懸命に働いて、それでも上司からは怒られて。
それでも家に帰れば楽しみがある。それだけであの頃はがんばれていた。
そんなある日、行きつけの珈琲店へ豆を買いに行くとたまたま同じ職場の男性アルバイトに出くわした。
余り話したことがない。プライベートで仕事場の人間と口を聞きたくもないんだけれど。気付かないフリができるほど広い店内でもない。仕方なく話をすることにしたのだけれど。彼もコーヒー好きだった。
しかも香りが好きという。
どの豆が好み?ああ、モカ系は少し苦手なんですよ。
他愛もない会話だったけれど、豆の好みも似ていた。
それからコーヒーが美味しく飲める近くの喫茶店へ寄ってから出勤するという彼と一緒にコーヒーを楽しむことにしたのがきっかけで、一生独りだと思っていた私に彼氏ができた。
それが、今、目の前ですやすやと寝ているパパ。
あの頃はコーヒーだけを飲みにいろんな喫茶店へと二人で出かけていたものだ。
忙しい合間を縫っては時間を作って。
ある喫茶店に行った時は別れる一歩手前まで言い合いしたこともあったっけ。
私はコーヒーには満足していたのだけれど、その店内に流れていた有線放送が喫茶店で流れる音楽とは思えないほど合っていなかった。
マスターはキッチンに入っていて見えない。カウンターで淹れてくれる店なんてこの地方では珍しかったりする。
確かに、コーヒーは美味しかった。
その時に彼が頼んだフレンチトーストを邪道だと言い半分残した。
私が頼んだものは珍しく酸味の強いモカ。
彼は決まってマンデリンの物をどこへ行っても頼む。
それが美味しければモカ系にもチャレンジする。といった具合。
「少し飲む?」
「次に来た時楽しみにしとくから」
「…次も来る?」
「美味しいもん。また来るよ。」
私は彼が飲み終える前に飲み終えて。店を出たのだけれどなんとも釈然としなくて帰りの車の中でついに口に出してしまった。とは言っても。
私が店を出てからずっと無言だったから、彼からしてみたら言いたいことがあるのだろうと、私が口を開くまで待っていた気もする。
「…ねぇ。あの店確かに美味しかったし店の雰囲気も好きなんだけどね。」
「はいはい。」
「……店で流れてる有線放送、ユーロビートはなくない?」
「やっぱり何か引っかかっておりましたか、お嬢さん。」
それからの言い合いと言ったら。
喫茶店って雰囲気も大事でしょうが。
いや、あそこはコーヒーの味で勝負してるんじゃない?
いやいやいや、そうであったとしてもユーロビートはないじゃないですかね。
確かにユーロビートはなかったかもしれないけどねぇ。
ゆったりと飲めやしない。あ、言っとくけどモカ、酸っぱかったからね。
…先に味の感想言うのなしでしょ。楽しみに取ってんのにさ。先入観が入るでしょ。
それから二人共一歩も引かず、終いには彼と一週間ほど口もきかなかったほど。
だけど結局、彼が職場で困り果てていたのを放って置けずに話しかけて仲直り…。
その頃くらいから彼は私の6畳の狭い部屋で一緒に暮らし始めた。
仕事でも何故か評価され始めて。
それから、4年ほどして借金の返済も終えた。
返済を終えたらやめようと思っていた職場。スッパリと辞めた。
毎日12時間労働は当たり前、日によっては15時間働いて。
身体的にも精神的にも限界だったから。そんな頃に彼氏は私の旦那さんになった。
それから1年も経たないうちに長女がお腹に来てくれて。
大好きなコーヒーを飲めないと嘆く私にノンカフェインのコーヒーを買ってきてくれた旦那さま。
だけど。カフェインの入っていないコーヒーなんてコーヒーじゃない。
蓋は開けたけれど飲まなかったのは申し訳なかったなぁと今でも思っているけれどそれは内緒。
そして、私がいないのに気づいた次女ちゃんの泣き声で二人共眠そうに目を覚まして、
「うわ、何してんの?」
と驚かれてしまった。
「何してんのじゃないの。今、何時かしら?」
昔のことを思い出していたことや、ノンカフェインのコーヒーの事などを話すのも照れくさい。そのまま、朝食の準備の続きをしにダイニングへ入ると、
「…やっぱりコーヒーの香りはいいね。目が覚める。」
「…コーヒーメーカーだけどね。」
「んじゃ今度の休み、俺がドリップで久しぶりに淹れてあげようか。」
「それより。長女ちゃんを公園に連れて行ってあげて欲しいね。次女ちゃんにヤキモチ焼いてるから。」
「あそ。」
「その代わり、帰ってきたら…ドリップは私が入れさせていただきましょう。」
二人して、ニヤリ。
「たまには二人でゆっくり飲みに行きたいねぇ…。」
「二人が大きくならないと。老後の楽しみ、ですかね。ほら、ご飯作ってしまうから。」
まだまだ二人の姫は大きくならないけれど。
コーヒー探しの旅は老後の楽しみにとっておきましょうか。
今は自分で淹れるコーヒーで我慢。それでも、香りは楽しめるしね。
老後まで、よろしく、パパ。
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