彼女と猫とアイリッシュコーヒー

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ある日差しの強い日。
その日は朝早くから彼女と海へ向かう予定だった。二人の苦手な早起きをして、張り切って出掛けるつもりでいた。久しぶりのデートだ。

 
しかし、前日の仕事の疲れからか彼女がなかなか起きなかった。予定時刻を遠に過ぎて彼女は目を覚ました。いつもこうだ。結局いつものようにお昼頃から行動するハメになった。
そんな彼女にうんざりしながらも、支度をどうにかこうにか済ませ、海へ向かう電車に乗った。
海が好きな私は久しぶりの潮の香りを楽しみにしていた。
彼女はいつものように、黒い服を着ていた。

 

電車を乗り継ぐこと1時間半、やっと海の近くの駅に着いた。かれこれ4〜5年ぶりに訪れた海だった。
デートらしいデートがなかなか出来ていなかったこともあり、私はこのお出かけをとても楽しみにしていたのだが、道中、彼女はずっと寝てばかり。
何の会話もなかったことに寂しさと苛立ちを覚えながら、私たちは海岸へ向かった。
日差しが照り付ける海日和の天気のせいか、かなりの人混みだった。右を見ても左を見ても、前も後ろも人、人、人。
大好きな海も、こうも人が多いと嫌気がさす。あの、大きな海を目の前にしたちっぽけな自分を味わいたいのだ。お祭りムードではしゃぐ楽しみ方は好きではないのだ。
私は人が多いのと暑さが苦手で、ますます不機嫌になった。

 

「暑いね。どこかお店入ろうか?」

私の顔色を伺っての気遣いだろうが、誰のせいでこんなに不機嫌になったと思っているんだと心の中でつぶやいた。

海岸から少し離れた名物の丼ぶり屋さんに入ろうとしたのだが、お店の前にはもの凄い人だかりが出来ていた。嘘だろと思いながらも、店先に向かった。
お昼時だったので仕方がないが、ざっと50人は優に超えていたと思う。
こうなったら意地でもこのお店で食べてやろうと、配られていた整理券をもらった。111組待ちだった。聞くと2時間以上待つらしい。
私はさらに苛立った。私は待つのも好きではないのだ。

「ちょっとそこら辺を探検しようよ!」

なぜ君はそんなに無邪気なんだ!と思いながらも、他にする事も無かったので、彼女の意見に従った。
彼女は変にポジティブなところがある。楽観的というか。
それに腹が立つこともあるが、それに助けられることの方が多い気がする。
この時も、111組待ちというどうしようもない数字にクラッと来たが、その無邪気さで平静を取り戻せた。

 

イライラしながらも彼女について街をフラフラしていると、道端にテキトーに立てかけられた看板を見つけた。
むしろこれが看板かどうかもはっきりしないクオリティーだ。絵と文字が描かれた、もはや板だった。
しかし、その板には猫が描かれていた。ムスッとした愛想のない猫だ。しかもどうやらカフェらしい。猫がいるかもしれないカフェ。
私はその板に心惹かれた。

「猫がいるのかな?行ってみようよ!」

彼女は変なものを引き寄せる才能がある。良い意味で変なものだ。
彼女と一緒にいると、不思議な出会いをすることが多い。自宅に城を建ててしまった人とか、ハーモニカの日本チャンピオンとか。
これもそんな不思議な出会いの一つだろうと思い、その誘いに従った。

板にはざっくりとした案内が描かれていた。矢印で方向が示されているだけ。
その矢印の示す方に歩いて行くと、すぐにそのカフェは見つかった。小さいが、外観からレトロな雰囲気が漂うお洒落なカフェだった。外にはテラス席もある。
内装も、椅子からテーブルから照明、絨毯、置き物まで、アンティーク調で揃えられた素敵な空間だった。これはアタリだと思った。
しかし、お客さんどころか店員さんの姿まで見えない。

「すみませーん!こんにちはー!」

彼女は嬉しそうに入っていった。私もウキウキしながら後に続いた。
窓際の席に腰をおろし、しばらく店内を見て回った。
飾ってある絵や、本や雑貨など、全てがまるで物語の中に出てくるような世界観で統一されていた。

しばらくして店員さんが私たちに気付き、注文をとった。
手書きのメニューの一番下に、見慣れない字面を発見した。私たちが頼んだのは「アイリッシュコーヒー」。
私も彼女も人並みにコーヒーは好きで、毎日飲むのだが、その名前のコーヒーは初めてだった。
どんなコーヒーが出てくるのか楽しみだった。

 

注文を終えてからというもの、彼女はキョロキョロキョロキョロして、一生懸命に猫を探し出した。
外のテラス席にいるんじゃないかと言ったが、外にはいないと言われた。何を根拠に断言されたかは定かではない。

「ニャー。」

コーヒーより先に、念願の猫が私たちの眼の前にどこからともなく現れた。
白と黒のマダラ模様をした、少し太った猫だった。あの板に描かれていた無愛想な絵にそっくりだった。なるほどなと納得がいった。
猫が好きな私と彼女は途端に楽しくなった。
きっとお客さんに慣れているのか、とても人懐こい猫だった。彼女は猫に好かれる人なので、それもあって寄ってきたのかもしれない。
猫を飼いたい飼いたいと言っていた彼女は、撫でる観察する撫でる観察するを繰り返していた。
猫の眼は、思っていた以上に水晶のように綺麗だった。
お店の雰囲気と同じように、その猫はゆったりゆったり動いた。太っているからか、お店の雰囲気が紳士的にさせるのかは分からないが、余裕を感じる立ち振る舞いをした。

 

猫に夢中になっていると、アイリッシュコーヒーが運ばれてきた。テーブルに置かれるやいなや、甘くとろけるような香りがした。とても良い香りのするコーヒーだった。どうやらウイスキーが入っているらしい。

「んー!美味しい!大人な味!」

彼女はご機嫌だった。アイリッシュコーヒーも気に入ったらしい。
コーヒーを飲むと不思議と心が落ち着く。考えをまとめようと思う時もいつもコーヒーだ。
彼女は脳みそ歯車を回す油だと言っていた。だが、この時のアイリッシュコーヒーは違っただろうと思う。もっと優しく心を溶かしてくれるような一杯だった。

 

潮の香りを乗せた風が窓から入ってきた。風が気持ち良かった。
猫もそう思ったのだろう、窓の縁に飛び乗り、外を眺めていた。
そんな猫を彼女はキラキラした眼差しで見つめていた。そんな彼女を私は見つめていた。

彼女は将来、雑貨屋さんをしたいとよく言っていた。世界中を旅して、自分が面白いと思ったものを集めた不思議な雑貨屋さんにしたいと。近所の子どもたちが自然と集まってくるような変なおばあちゃんになりたいと。そこで猫も飼いたいと。
そのカフェは彼女の理想に少なからず近い雰囲気を持っていた気がした。アンティーク雰囲気で、猫もいるし、小粋な雑貨もあるし、こうやって変な二人が訪れるようなカフェだ。
アイリッシュコーヒーのせいか、お酒が強くない私と彼女は、少しふわふわした気持ちでいたと思う。話が弾んだ。
最近仕事はどうだとか、この前おじさんに絡まれただとか、将来どうしたいだとか。

 

「コーヒーを出そうよ。アイリッシュコーヒーを。」

良い案だと思った。
きっと彼女の雑貨屋さんに訪れる人も、アイリッシュコーヒーを飲んで、猫を観察して、不思議な空間の雰囲気に酔いしれる、素敵な時間を過ごすことが出来るだろう。そう思った。
きっとイライラしている人も、その雑貨屋さんに入ってアイリッシュコーヒーを飲めば、苛立っていたことなんか忘れて、軽やかに話し出すことだろう。私が今そうなっているように。

 

急に自分が情けなく思えてきた。朝からずっとイライラしっぱなしで、久しぶりのデートなのに彼女に良い顔を一つでも見せられていたのかと。そんな私を彼女は気遣ってくれていたのに、それを蔑ろにしていたと。
それにも関わらず、彼女の無邪気さは私を楽しませてくれる。いつもこうだ。
彼女にいつか恩返しをしよう。彼女が落ち込んでいたり、悩んでいたり、悲しんでいたりしたら、誰よりも親身になってあげよう。そう思った。

 

「そろそろ丼ぶり屋さんに行ってみよっか。」

店先の人混みはまだ無くなっていなかった。先ほどとなんら変わらずという具合だった。
整理番号が呼ばれると、もうすぐ私たちの番だということが分かった。ホッとしたからか、急にお腹が空きだした。
しばらくして私たちが呼ばれ、楽しみにしていた丼ぶりを食べることが出来た。これがまたとても美味しかった。並んでまで食べる価値ありだった。
お腹も満たされ、イライラしていたことなど忘れてしまっていた。

「今日はごめんね、早起きする予定だったのに。せっかく楽しみにしていたのに。」

もうそんなことどうでも良かった。彼女とこうやってゆっくり出来れば、朝が早かろうが夕方から動こうが、どっちでも良かった。
ベンチに腰掛け、しばらく海を見ていた。特に何も話すことなく、ただ二人寄り添ったまま。相変わらず陽気にはしゃぐ人は多かったが、不快にはならなかった。
海に沈む夕日を見ながら、また将来の話になった。私は本屋さんをやりたいと彼女に言った。雑貨屋さんに併設された、アートやデザインの本を主に取り扱うような。そこに若いアーティストやデザイナーが集まり、未来について語り合う場を作りたいと。そこでアイリッシュコーヒーを出してくれないかと。
彼女は嬉しそうな顔をした。私は夕日を見ていたので、本当にそんな顔をしたのかは定かではないが、きっと嬉しそうな顔をしていた。

「コーヒー、飲みに行こっか!」

そう言って彼女は元気良く立ち上がった。私は彼女に従った。
夕日がオレンジ色に染めた道をしばらく歩き、オレンジ色に染まった板を横目に見、またあの猫のいるカフェに入った。また君たちかという顔をされた。

「アイリッシュコーヒー二つください。」

無愛想な猫がまたどこからともなくやって来て、窓の縁に飛び乗った。きっとこの猫は彼女のことが気に入っているのだろう。
アイリッシュコーヒーが運ばれてきた。甘い香りがした。窓から潮の香りを乗せた風が入ってきた。彼女の黒い服とコーヒーとお店の雰囲気がマッチしていた。彼女は嬉しそうに微笑んでいた。私は、これが幸せって言うのかなと思いながら、アイリッシュコーヒーをすすった。

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