その日の朝は、久しぶりの匂いで目が覚めました。
どうしたのかとリビングに行くと、先に起きていたらしい夫の手元には、懐かしいコーヒーミルが。
以前は、休日はこの豆のいい香りで目覚めることが常だったのですが、いつの間にかそういったこともなくなっていました。
そう、たぶん子供が生まれてから。
「おはよう」
「おはよう。久しぶりだね、コーヒー」
私がそう言うと夫はうん、と少し笑ってから、これからはねと付けました。
「朝ごはん食べる?」
「もらおうかな、お昼も食べるから少しだけ」
夫のいくつかの趣味の一つに、お菓子作りがありました。
一時は本職にしていた頃もあるくらい、その腕は家族の贔屓目なしになかなかのものだと言えました。
そしてそれと同じくらい、夫は料理も好きでした。こちらもとても美味しくて、結婚当初早々に白旗を上げた私は、主婦のプライドを捨て、夫が作ろうと言ってくれた時は喜んでキッチンを譲るのでした。
今日の朝ごはんは、トースト、ベーコンエッグに、サラダとヨーグルト。
ヨーグルトの横に、最近夫が気に入っているマーマレードとイチジクのジャムを置けば、朝食の出来上がり。
「ありがとう。うん、美味しそう」
「いただきます」
「いただきます」
ぽたり ぽたり
ゆっくりとドリップされるコーヒーの音をBGMに、特に会話もなく食べ進めます。
ただ、いつもの習慣というか癖で、私は小さく「うん、美味しい、美味しい」とつぶやくので、その度に小さな笑いが前の席から聞こえました。
「晴れて良かったね」
「そうだね」
穏やかだな、そう思いました。
夫婦になったばかりの頃に戻ったようでした。
私たち夫婦は、学生時代からの付き合いだったので、その10年後に結婚した頃には、もうほとんど新婚などとは言えない落ち着いたものになっていました。
だからでしょうか。結婚した後も、二人の関係は変わらず、夫婦というよりもずっと静かに恋人同士を続けているかのような日々でした。
今と同じように、休日には夫の作った朝食を食べ、のんびりと会話をする。
ドリップの落ちる間を待ちながら、一週間あったこと、今日最近聞いた話、見たテレビのこと、今日の予定などを話し合いました。
朝食だけで無く、おやつの時間にもそうやって話しました。
お菓子が趣味だったのでもちろんその日は夫の手作りのお菓子やケーキを食べ、コーヒーを飲みながら話をする。
特に二人とも、よく騒ぐ方では無かったから、側から見ればとても静かな風景だったでしょう。
静かで、穏やかで、ゆっくりと流れる時間。
そんな当たり前で穏やかだった日々が、実質本当に「穏やか」だったのだなと思えるようになったのは、子供が生まれ、慌しさにのまれてしまってからでした。
長い間、とても騒がしかったような気がします。
幸せだったかと問われれば、そうだと胸を張って言える日々でした。
ただやはり、二人だけでは無くなってしまったことで心の余裕は減り、結婚したばかりには無かった小さな諍いがあったりもしました。
きっとその時から、私たちは「恋人」から「夫婦」へと変わってしまったのでしょう。
「今日、何時からだっけ?」
私の問いに夫は食卓の隅にあった紙を手に取りました。
少々見にくいのか、目を細めながら「11時半開始だから、10時半くらいかな」と言いました。
その言葉に私は「ありがとう」と返し時計を確認します。
7時を少し過ぎた頃でした。
まだ時間がある、と感じるべきか、とうとうこの時が来た、と感じるべきか。
未だに少し現実感の湧かないフワフワとした気分を抱えながら、私は目の前の夫を見つめました。
夫はまだ手元の小さなカードを眺めており、その内容の読み込みに漏れが無いかを確認しています。
その細められた目元には、結婚したての頃には無かったものが刻まれています。
カードをためつすがめつ裏返したり戻したりする手にも、昔には無かった細かな皺。
もちろん、それは私の目元や手にも同様に刻まれているものです。
「なんか、ついに、って気分。実感湧か無いや」
やっと手に持ったカードを手放して、夫はため息交じりにそう吐き出しました。
どこか突き放すような響きのある声と表情。
元来あまり表情の変わる人ではありませんでしたが、長い間一緒にいるとその表情も読めるようになってくるものです。
私はそんな夫の表情が、見ただけの意味では無いことも気づいていましたが、特に何も言うこと無く頷き返しました。
そんな私の反応を、じっと見つめる夫。
そして暫くあと、ふいと視線をテレビの画面に移し、独り言のように呟きました。
「あの子が出来たばかりの頃、俺、嬉しかったけど……やっぱりちょっとだけ惜しかった」
「え?」
私が思わず問い返すと、夫は少しだけ言葉を選ぶように視線を彷徨わせてから「もっと」と言いました。
「もっと、君と、夫婦みたいな、恋人みたいな…よくわからない関係でいたかったのかもしれない」
思わずはっとして夫の顔を見つめてしまいました。
それは私の思っていたことと、とても似ていたからです。
家族としての、夫婦としての、幸せな日々。
でもその日々は、二人の間にあった何かを、さっと溶かし消してしまうような日々だったのです。
そう、きっとそれは「恋」というものだったのかもしれません。
でもそれを後悔してしまうのは、家族としての日々を否定しているような気がして、私は思わず俯きぎゅっと手を握りました。
何を言えばいいのか思い浮かばず、うわ言のように「でも、それは、でも…」と口の中でモゴモゴと呟くことしかできませんでした。
そんな時、夫がさっと立ち上がりました。
コーヒーができたようです。
白いマグカップに良い香りのするコーヒーが注がれ、向かいの席に夫が座りなおしました。
そしてそっとコーヒーに口をつけます。
「だから、さ」
明るい夫の声が聞こえました。
「これから色々、戻っていこうと思うんだ。だってまた二人暮らしに戻るんだからね。
そう思うと、楽しみで嬉しくて、いてもたってもいられなくて、君より先に起きてコーヒーなんていれてみた」
少しおどけたようなその物言いが、昔とちっとも変わっていなくて、思わず口元に笑みが浮かびました。
「そんなこと言って、今日はもっと大事なことがあるでしょう?せっかくの、娘の結婚式なのに」
傍のカード−−−娘の結婚式の招待状−−−を、トントンと指しながら言う私に夫は悪びれもなく「もちろんそっちも楽しみ」と答えました。
今日は一人娘の結婚式。
幸せな日々の結晶のようなあの子が、我が家を巣立っていく日なのです。
その娘自身は、もう既に昨晩から式場のホテルに泊まっていますし、その後もすでに荷物を運び終えた新居へと向かうでしょう。
だから今日からまた二人暮らしの生活。
夫婦だった日々は幸せでした。
だからこそ、これからの日々がもっと幸せになるかもしれない。
そう思うとふと心が軽くなりました。
やっと目の前のコーヒーカップに手をそえます。
柔らかな湯気の先にある、懐かしいあの香り。
恋人になって、夫婦になって、また、恋をする。
コーヒーを飲んで、なんでもない話をして。
貴方と、何度でも恋をする。
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